その日、私は我が家の離れに存在するある部屋の前で、扉を背にして腕を組んでいた。扉に寄り掛かり、背中を預けている。
「――辞めてきたんですって?」
 私の眼前には廊下を挟んで壁があり、そこには油彩の風景画が飾られていた。それを真正面に見据えてそんな言葉を発した。
「――…ああ」
 扉の向こう、部屋の中から声がした。短い応答のみが返って来る。室外への返答だが、その主は特に声を張り上げるような事もしていなかった。それで聴こえるだろう、或いは聴こえなくても構わないだろう――そんな意思が透けて見えて、私には腹立たしい。
 私は突き当たりに存在する窓から差し込む夕陽を、身体の側面から受けていた。視界がオレンジ色のフィルターに透過されたかのように染まっている。それは普段通りの光景で、今日起こった出来事など一切関係していなかった。
「…あんたって、最低ね」
 特に吐き捨てるでもない。内心の苛立ちをよそに、私はやけに平静に、淡々と言葉を口にしていた。真正面を見たまま、背後の部屋に言葉を伝える。
 こんなにも静かな夕暮れならば、この程度の声でも充分に聴こえているはずだった。特に、もうこの部屋からは、バイオリンの旋律など響く訳もないのだから。
 室内からは特に応答はない。しかし聴こえていない訳がなかった。  空の向こうから、烏の鳴く声が届いてくる。

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