波留とミナモは、あのアイランド以来初めて顔を合わせた格好になる。特に再会の約束などしていない結果、この1ヶ月以上の期間では一切会う事が出来ていなかった。 その条件を変化させていないと言うのに、今日はあっさりと再会出来ていた。波留が最近電理研の委託メタルダイバーとして復帰し、今まで遠ざかっていた電理研に再び足しげく通う事になったのが大きな変化であり、それが再会の機会を増やした事も大きいだろう。それでも今まではどうにもならなかったと言うのに、機会が来たならばすんなりとゆくものだった。 ミナモは一時の硬直からは解放されたものの、その心臓の高鳴りは未だに続いている。8月中は再会に努力をしていなかったのに、9月初頭に波留の消息をフジワラ兄弟に教えられた事で急に会いたいと望むようになっていた。しかしその気持ちは一時的なもので、すぐに萎んだはずだった。 ――どうしよう、何も準備してなかった。 ミナモは不意にそれに思い至る。まさか会えるとは思ってもみなかった。だから出掛ける際にも服装にはあまり気を遣っていなかったし、そもそも差し入れの弁当も用意していなかった。いっそこの弁当のうちのひとつを渡してしまおうかと言う後ろ暗い考えが心をよぎるが、彼女はそれを流石に良しとしない。 「あの、波留さん」 少女が努力して口にした言葉は、それだけだった。名前を呼ぶ事しか出来ない。それに、呼ばれた側は柔和な表情を浮かべていた。 「お元気そうで何よりです。アユムさん達からお話は伺っていました」 その語り口はミナモの記憶の中に残るものと同じだった。それが彼女の緊張を徐々に緩めてゆく。呼吸を続けてゆくと、胸の内部で暴れる心臓も落ち着くような感じがした。 「今日はどう言った御用件で電理研に?」 ミナモに対して波留は自然に問い掛けてくる。40日以上のブランクなど感じさせない態度だった。その感触にミナモは浸る。顔は相変わらず熱い心地がするが、それでも微笑んでみせた。 「差し入れです。波留さんはお仕事ですか?」 「ええ。実はそろそろ帰ろうと思っていた所でしたが、お会い出来て良かったですね」 出来る限り普通の口調でミナモは波留に話しかける。それに波留は普通に応対していた。 「――で、そちらの方もミナモさんのお連れさんですか?」 波留がミナモの背後を手で指して訊いて来る。その質問に、ミナモはようやくもうひとりをここに連れてきている事を思い出していた。今まで案内してきたと言うのに、個人的な事情で存在を失念しようとしていた。とても無礼な事をしてしまった――そんな考えが彼女の中に去来する。 だから、慌ててミナモは振り返った。とりあえず、両者を紹介し合って挨拶を交わして貰おうと思う。 「波留さん、こちらは――」 しかし言いかけて、ミナモはこの老女の名前などの個人的な情報を一切訊いていない事に気付く。単に水上バスで隣り合った行きずりの関係であり、電理研に用がある者同士案内しただけである。妙に気が合うような印象を一方的に持っていたために、その事実をすっかり忘れていた。だから、第三者たる波留には、紹介のしようがなかった。 ミナモの台詞が途切れてから、沈黙は一瞬しか経ていない。そこに老女が口許に手を当て、怪訝そうな声を上げていたからだ。ミナモが台詞を継いでいたなら、少女と老女の言葉は被さっていた事になるだろう。 「――…波留…?」 皺が寄った手の甲ではあるがそこから伸びる指は優美なもので、爪も綺麗に切り揃えられている。その手で老女は口許を隠していた。何かを思い出そうとしているのか、上目遣いになる。 「あなたが?…でも、お若いのね。義体とやらなの?」 老女が呟くように発した言葉を、波留は捉えていた。波留にとっては、どうも自分の事を知っているような口振りである。 しかもその台詞の内容から、本当に自分が若かった頃の話を知っているかのようだ。最近の自分の事ではないようだった――とは言え若返ったのは本当にこの1ヶ月程度前の話であるから、それ以前の老人の頃を知っているにしてもやはり戸惑いは隠せないだろうが。 ともかく波留はベンチから腰を上げる。老女を紹介されようとしている以上、座っているのは礼儀に反する行為だった。軽くシャツの裾を掴んで皺を伸ばしつつ、老女に対して会釈する。 「…お会いした事がありましたか?」 波留はそう質問していた。実はこのなりで81歳であるとか全身義体ではなく生身であるとか容貌が1ヶ月前に若返っているとか、そう言うややこしい事情はとりあえず置いておく。彼は、ひとまず会った事があるのかどうか、その前提を確認しておきたかった。それによって話の流れが大きく違ってゆくからである。 老女は波留の質問には答えない。沈黙している。口許に当てた手を下ろす。背筋を伸ばして、黒髪の一見して青年に相対していた。 彼女は波留よりも背は低いが、その差はそこまで大きくはなさそうだった。視線が若干下にゆく程度である。何よりミナモよりも背は高い。見るからに高齢の老人であるようだったが、女性にしては背が高い方と言えるだろう。 その彼女が、表情を引き締める。口を真一文字に結び、伏し目がちになった。波留に対してゆっくりとその頭を下げてゆく。 「弟が本当にお世話になったそうですね」 老女はそう言って、波留に向かって深々と一礼をしていた。 見事に結い上げられた美しい白髪を見下ろしつつ、波留は怪訝そうな表情を浮かべる。――どういう事だろう。考えを巡らせてゆくと、50年前の人工島建設期かそれ以前の日本時代の電理研かに思い至っていた。そう考えたならば、彼女の「弟」らしき人間にも心当たりがあるものだろう。自分と同年代の人物との関わりを指しているはずだ――波留はそう結論付ける。 一方、老人と一見青年とのやり取りを眺めていたミナモも、色々と考えている。――弟に会いにきたのよ。この人はそう言っていたはずだ。と言う事は、弟さんはこの電理研内部に健在のはずだ。…波留さんとはメタルダイブの仕事とかで関わったのだろうか?それをどう言う事情からか、人工島外部のこのお婆さんも知ったのだろうか――彼女はそんな結論に至っていた。 |