結局アンドロイドとのやり取りにより、ミナモもその老女もリラクゼーションルームへの入室許可は与えられていた。 リラクゼーションルームとは完全なる一般人は入室許可が下りない場所ではあるが、他の区画よりは許可の発給基準は緩い。更には彼女らが利用する場所は一般的な人工庭園タイプのルームであり、職業人の利用者が多いだけあって一般人に対しても他のルームよりは許可を出される人間も多かった。 そう言う場所だけあり、エントランスからの距離はそう遠くはない。広い通路を歩き、その間に設けられている数箇所のコンソールで認証チェックを受けてゆく。 僅かに下る通路の先に開けるのは、明るい印象の庭園だった。落ち着いた色彩の壁の通路の向こうには白い建築物や柱が立つ庭園が広がり、そのあちこちに緑の植え込みが配置され蔦が伸びている。その周囲には水路があり、そこには本当の水が流れていた。 「――あらあら…凄いのねえ電理研って。ここ、そもそもは海底でしょう?」 「はい」 呆れているのか感嘆の念を抱いているのか。リラクゼーションルームを訪れた老女の口調はのんびりとしたものだった。 しかし台詞の内容からして後者のように思え、ミナモは素直に頷いていた。その感想は電理研を初めて訪れた人間ならば必ず抱くようなものである。それはミナモも同様であり、またしてもこの老女に親近感を抱いてしまう。 「しかもこんな庭園なんか造ってしまって。この木とか、本物じゃないの。何を考えているのやら」 「凄いですよね」 老女が指し示した植え込みを、ミナモは見やる。そう言った事もまた、ミナモが以前抱いた想いだった。 今まではミナモが先行して案内していたものだったが、この庭園タイプのリラクゼーションルームに入室してからは、老女が何時の間にかにミナモの先を歩いている。彼女はあちこちを興味深そうに見やっており、ミナモはその背中を眺めていた。 そしてミナモは周辺を見渡す。何処かに落ち着けるような場所はないかと、視線を巡らせてゆく。 「ベンチに座りますか?」 ミナモの申し出に、老女は振り返った。相変わらず背筋を伸ばして歩く彼女だったが、口許に笑みを浮かべてこう告げる。 「そうね。流石に疲れるわ。哀しいけど、歳には勝てないものね」 「じゃあこの辺に空きがないか、探してみましょう」 頷くミナモは周辺に注意を払い始めた。手提げ袋をぶらぶらと膝の前に揺らした状態で、きょろきょろ辺りを見る。一般的なリラクゼーションルームだけあり白衣姿の職員を中心に利用者は多い。各所のベンチが定員の満席になっていると言う事もないが、ミナモとしてはやはり余裕を持って座りたかった。 「――そう言えば、電理研にはどう言った御用件なんですか?」 その道すがら、ミナモは老女にそう訊いていた。前を歩く和装の女性に対して背中に問いを投げ掛ける。 そもそも人工島に来たのは初めてらしいのだ。そう言った人間が電理研を訪問するとは一体どう言う事情があるのだろうとミナモは思う。 確かに電理研は巨大企業ではあるが、人工島においては公共施設めいた部分もある。それは人工島は国家そのものではなく経済特区であり、その企業体を実質的に運営する機関である面が大きいからだった。 だから一般人の訪問ツアーなども受け容れている。学生ならば社会化見学などで訪れる機会もあった。流石に機密に触れるような部署には立ち入りは許されないが、そうではない場所に関しては情報公開の意味も込めて積極的に開示していた。 しかしこの老女は、その手のツアーを利用している訳ではない。単独で電理研を訪れようとしていたのだ。公共機関めいた部分がある以上、用件がなければ訪れる事もないだろうこの電理研を。 「弟に会いに来たのよ」 さり気ない口調で老女はそう答えていた。ミナモに視線だけを向け、身体は振り向かない。 ――とすると、この女性の弟が電理研に勤務しているのだろうか。しかしこの老女からして相当の高齢であるように見える。その弟とは、酷い年齢差がない限りは、やはり老人の域に達しているだろう。研究職ならば老人になっても電理研に居残っている可能性もある。 ミナモはそんな考えを巡らせていた。何せ彼女はその4月から今まで、電理研と縁が切れた事がない。だから一般人よりもその内情を判ってはいた――大して内部を探れる立場ではなかったが。 不意に彼女の視界に、空いたベンチが現れる。それは彼女が探していたものであり、それを認めた事で彼女の思惟は中断された。途端に彼女は手を挙げる。老女に向けてアピールした。 「――お婆さん、座れそうなベンチありましたよ」 「あら、それは良かったわね」 先を歩いていた老女は、ミナモの言葉に足を止めた。和装に合わせた草鞋で床を踏みしめる音がする。しっかりとした足取りでその足を進め、ミナモの呼び止める方へと歩いて行った。 ミナモは小走りにベンチへ向かう。老女が辿り着くまでにその席をしっかりと確保しておくつもりだった。立ち話に興じている白衣の人物達の脇を通り、その茶色いベンチへと向かう。 すると、ベンチの左側部分には人が腰掛けているのを発見していた。先客が居た事になる。しかしそのベンチは5人掛け程度の定員であり、独りで占領するには広過ぎた。それに真ん中から半分に領域を分けたにせよ、その半分にふたりが座るのは充分な広さだった。 だからミナモはそのベンチに駆け寄ってゆく。人影に紛れて良く見えていなかったその先客に声を掛けた。顔には笑顔を浮かべて元気一杯に問い掛ける。 「――あの、お隣いいですか?」 「ええ。僕独りですから、構いませんよ」 男性の低い声が返ってきた。その声の印象は朗らかなものである。ミナモはそれを感じつつ、その姿を見やった。 その茶色いベンチに腰掛けていたのは、長い黒髪を後ろに纏めた男性だった。 その姿を、ミナモはしばしぼんやりと見やっていた。しかしその人物が誰なのか脳が悟った瞬間、彼女の身体が硬直する。一気に頬に紅が差す。飛び上がるような鼓動が彼女の胸を打った。動かない手に提げられた手提げ袋が、ゆらゆらと彼女の膝の前で揺れている。 ミナモは自分が今どんな顔をしているのか、全く想像がつかなかった。只、目の前に座っているその人物が不思議そうな顔をして自分を見上げているのを感じていた。顔に垂れる前髪や脇に流れる黒髪は、8月末に見かけたままだと思う。 何かを言わなくてはならない。ミナモはそう思う。しかし言葉が何も出てこない。頭が真っ白になってしまった。 そもそもまた会ったら、どんな事を話そうと思っていたのだったか?そう言ったシミュレーションなどやった記憶はなかった。出会ったならまた自然に会話出来ると信じていたからだ。それが、この状態である。自分は一体どうしてしまったのだろう。 自分はどれ程の時間、沈黙していたのだろう。ミナモにはそれすら見当がつかなかった。しかしその時、目の前の男性がふっと笑った。それにより、空気が一気に弛緩する。彼は目を細め、その視線を落とした。右手を伸ばし、ミナモ達の領域となるべき場所をさっと払う。 「――お久し振りです、ミナモさん。お隣、どうぞ」 波留が発する声は、相変わらず朗らかだった。それを感じ取り、ミナモもまた目を細めていた。ようやく呼吸出来る気分になり、大きく頷いていた。 |