「――んじゃ、俺はそろそろダイブルームに行きますよ。ユージンの奴がぼやいてそうだ」
 そう言ってアユムは波留に軽く頭を下げつつ、ベンチから腰を上げる。彼の弟は既にダイブルームに先行しており、様々な雑務を行っているはずだった。その手の面倒臭い仕事をこの兄は弟に任せっきりとしがちであり、弟も既に諦めている。
「ええ、くれぐれも安心安全で。――今度の日曜、予定通りにお店のお手伝いに行きますから」
 波留からの最後の付け加えにアユムは足を止めた。そう言えばと、リラクゼーションルームではあるが彼は自らのダイビングショップのメタルに接続して予約履歴を確認する。波留の次の日曜出社は前々から予定されていた事であり、それに対応して客の予約も入れていた。
 その客数は普段のフジワラ兄弟担当日よりも多い。店主兄弟はその日は仕事なので店には出て来ず、波留ひとりでレジャーダイビングの運行をする事となる。単純に人員が半分となっている日だと言うのに逆に客は増えているのだから、如何に波留の人気が相変わらず高いのかが見て取れた。
 様々な面でどうも敵いそうにない人物だとアユムは波留に対して思わざるを得ない。しかしそれが嫉妬に繋がるとか、そう言う事にはならなかった。アユムはそう言った負の要素がまるでない性格であるのが重要な理由となっている。
 アユムは右腕を挙げ、波留に対して振り上げた。威勢のいい態度を取り、そのままリラクゼーションルームの出口に向かって歩いてゆく。波留はその背中に軽く手を上げて見せていた。表情には笑みが浮かんでいる。
「――波留さん。俺達もこれで失礼します」
 アユムが白衣組の中に姿を消した頃、波留の左隣に座っていた2人組が席を立つ。先程ダイブルームで波留を心配して声を掛けた黒髪の男が、また挨拶を発して来ていた。その背後には距離を取り、様子を眺めているバディが居る。
「ええ。また御一緒出来る縁があるといいですね」
 波留はそう言って微笑み、右手を差し出した。彼らとそれぞれに握手を交わす。しかし特に情報のやり取りを行う事もしない。それは単なる握手に過ぎなかった。
 そうやって波留は、アユムに続いてダイバーふたりの背中を見送ってゆく。彼が腰掛ける数人掛けのベンチが寂しい状況になった。その中央に足を組んで座ったまま、辺りを見回す。
 彼の電脳には、先程密かに取得したジャンクデータが残っている。この解析を行う必要があるが、たとえ自分のメタルを使用するにしても電理研内部では行わない方が良さそうだった。ジャンクの横取りと言う咎められる行為をやって以上、その発覚を出来る限り恐れなくてはならない。
 となると、自宅に戻って作業を行うか。完全を期すならばハナマチ辺りに存在する託体施設を借りて足がつかないようにすべきかもしれないが、その行為自体が大袈裟であり却ってリアルから電理研に疑いを持たれる可能性があった。
 ともかく今回のダイブに対する査定も終わり、波留は今回の仕事を終えている。拘束時間も待機期間ももう存在せず、帰宅しても良い状況になっていた。査定待ちのついでに先程のふたりと会話していたものだが、そのどちらも終わりを告げた。
 思考を巡らせた末、波留は軽く息をつく。ベンチの背もたれに身体を預けた。
 この部屋は完全なる自然ではないが、可能な限り人工物を排除している。彼の背後の植え込みは天然の緑と土により成り立っているし、水路に流れる水も同様だった。閉鎖空間であるために衛生面には気を遣い、微生物の繁殖を抑えるナノマシンは散布されてはいるが、僅かに漂う香りは地上の公園のそれと変わらない。彼はそれらを見やっていた。
 ふと、視線に気付く。波留はその気配を感じ取り、視線を向けた。
 その先には相変わらず、先程の人工島外からのダイバーの少年が立っていた。距離を取った状態で、波留の方を見やっている。
 ――僕の事が気になるのだろうか。そんな事を思った。知り合いならば距離があっても電通で会話を飛ばしてみる所だが、彼らはアドレスの交換をしてはいない。メタルダイブ中に行った電通は、そのメタル内でのみ通用する擬似回線を用いたものだった。
 だから波留は顔に微笑みを浮かべ、片手を振ってみせた。彼らの間には白衣姿の人間が複数存在しているが、視線が一致している以上その彼の態度は相手に伝わっているはずだった。
 しかし波留は、その少年ダイバーからは胡散臭いような視線を向けられるだけだった。
 
[next][back]

[RD2ndS top] [RD top] [SITE top]