ミナモが住んでいるのは人工島の地上部分における一般的な居住区である。その環境は、人工島の中においても恵まれている部類に入る。
 人工5万人程度の島とは言え、地上区画の面積は限られている。増設に増設を重ねる地下や海底区画に入居している人間も多い。そんな中でリアルの太陽の光に触れる事が出来る住居に住む事が出来る人間は、世界的に見たら選ばれた存在である人工島民の中でも更に選ばれた存在だろう。
 以前、ミナモ自身は、その事を良く判っていなかった。自然に溢れたオーストラリアから引っ越してきた彼女は、その自然に触れる事が出来る環境が当たり前だった。だからこそ、天然ものが使われていた食卓を貶す事も出来たのだ。それを維持するのに兄がどれだけの労力を費やしているのか、そんな想像も出来ていなかった。
 しかし、今のミナモは違っていた。流石に割と高額な生活費自体を彼女自身が工面する事は出来ず、また家族もそれを求めてはいない。それでも自分がこの生活を行うためにはそれだけの金額を費やしている事を、彼女は悟っていた。
 現在のミナモは、水上バスの人となっている。今は平日の昼下がりの時間帯であり、彼女が乗車しているのは幹線経路のバスだった。しかしそれだけに、本数が多く運行されている。だから彼女が乗っている中型バスは、全ての席が埋まってはいない状況だった。
 バスの頭上は透明な素材の屋根で覆われている。その先に浮かび上がる明るい太陽の光が、屋根に透過されてミナモに降り注いで来ていた。確かに眩しいが屋根の素材によって余計な光の成分をカット出来ているらしく、その明るさは過度ではない。
 ミナモはその光を受けつつ、水路の向こうを見ていた。街並みは相変わらず変化する事はない。あちこちに掲示されている広告は人々の物欲を刺激するような代物であり、時折挿入されている公共広告では様々な天体観測の情報が掲示されていた。
 水路からは微細な揺れが伝わってくる。ミナモは膝の上に置いている手提げ袋をきちんと抱えた。冷たい水の飛沫が僅かに頬に感じられた。
 これは定期バスのため、当然ながら運行しつつもバス停に停車してゆく。今停まったバス停からは何人かの乗降がある。ターミナルや国際空港に近い位置でもあり、それなりに利用者が居るバス停だった。
 人員の移動があった事で、バスの中も若干の流れが起こっている。ミナモの隣の席も今まで空いていたが、そこに座ろうとする人間がやってきた。ミナモも荷物は膝の上に纏めており、隣の席を占領していた事はない。それでも軽く水路側と呼ぶべきバスの縁側に身体を寄せていた。乗ってきた方と既に座っていた方と、軽く会釈を交わし合う。
 バスが動き始める。それ程速くはない速度で滑らかに水路を走ってゆく。その流れに車内は落ち着いていった。
「――ねえ、あなた」
 その時、ミナモは隣の席の人間から声を掛けられていた。それはしわがれていて静かな声だった。その手の声は、彼女は介助実習の時に良く耳にしているし、そもそも4月から7月に掛けては特別な声だった。
 しかし、今耳にした声は、何処となく凛とした印象を与えるようなものである点が、他人とは違っていた。その一言だけでそこまで分析出来るものでもないだろうが、それが彼女の直感である。
「…はい?」
 ミナモは呼びかけられ、顔を隣の人物に向ける。
 そこに座っていたのは白髪の老女だった。おそらくは長髪であると思われるその髪を綺麗に結い上げており、纏う和装にとても良く似合っている。あまり日に焼けていない肌には確かに無数の皺が見られるが、その顔立ちは美しいと形容して良いものだった。
 そして背筋もぴんと伸びており、椅子の背もたれに身体を預ける事もしていない。元気な老人はこの人工島には良く見られるものだが、その中でも群を抜いて健康そうに見えた。
「電理研…に向かうには、このバスでいいのかしら?」
 その老女が発した台詞の中には若干の沈黙が存在していた。人工島住民には生活に密着した存在であるその組織名を淀みなく言えないとは、珍しい人間も居たものだとミナモは思う。しかし彼女も人工島住民となったのはこの4月からであり、ようやく半年に届こうかと言う時期に過ぎない。
 そんな自分が、誰かに人工島の知識を伝える事が出来る状況にある。それを悟ると、ミナモは何だか妙に誇らしい気分になっていた。笑顔を浮かべて応対する。
「はい、そうですよ。でもこの路線、ちょっと入り組んでるんで電理研に着くのは遅くなるんですよ。急ぎなら乗り換えた方がいいかもしれません」
「あらそうなの。でも、別に急ぎじゃないからこのままでいいわ。乗り換えた先でまた判らなくなったら大変だし」
 ミナモの微笑みを受け止めた老女は、僅かに笑みを浮かべていた。ミナモのように全開の笑顔ではない。若干口角を上げる程度のもので、そこに品が感じられる。
 老人には縁があるミナモは、老女に向き直る。そのまま会話を交わす事にした。持ち前の明るさを発揮する。
「電理研に御用件があるんですか?」
「ええ」
 さり気ない口調で老女は答えた。屋根に透過されて降り注ぐ陽光が、彼女の白髪を美しく彩る。
 ともかくミナモは膝の上の手提げ袋をふたつ、掴み直した。中身の弁当箱が発する微妙な熱が、ミニスカートから露わになっている太腿に伝わってくる。それを感じつつ、彼女は元気な声で言い出した。
「私も電理研に行くんです。良かったら御案内しましょうか?」
「…いいの?」
「とりあえずエントランスまでは御一緒出来ると思います」
 ミナモの申し出に、老女は僅かな間を置く。しかし次の瞬間にはその口許を綻ばせていた。
「なら、お願いしようかしら。私も人工島には不案内だから、助かるわ」
「任せて下さい!」
 満面の笑顔を浮かべ、ミナモは大きく頷いていた。両手が塞がっていなければ、その胸を大きく叩いていた事だろう。
 4月の入島から一連の事件を経て、ミナモはこの人工島の事が好きになっていた。15歳と言う未だ短い人生の中で非常に濃い経験をした場所であると言う事情も存在するだろう。しかし彼女自身は非常に単純に「この島が好き」と口に出す事が出来ていた。
 だから彼女は、この島を訪れた人々にも、この島の事を好きになって貰って欲しかった。その手助けをしたかった。
 
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