メタルの海とは膨大な人間の意識の集合体である。プロのメタルダイバーであっても、ともすればその海に呑まれ、意識が溶けてしまう事故も発生する。それを防ぐのが彼らが装備しているメタルダイブスーツである。これがメタルの海と彼らの自意識との境界を成し、文字通り薄皮一枚として最後の砦を果たすのである。
 メタルダイブスーツはダイバーの標準装備する防御プログラムだが、その効力はメタルダイバーの意識に左右される。海の情報を探るために敢えてその簡易防壁を薄くする事も、メタルダイバーのテクニックのひとつだった。
 波留は現在、それを開始していた。意識を海に放射し拡散させる。防御プログラムを最低限の展開とし、海から情報を取り込もうとした。少しでもプログラムの操作ミスをすれば、メタルの海の情報が彼の自意識に流れ込んでくる事になる。それだけに彼はその作業には慎重を期していたが、エアの残量との兼ね合いもある。あまり時間を掛ける訳にもいかない。
 微かな旋律が彼の脳に届いてゆく。彼はそれに導かれるように、メタルの海を漂った。軽く足を動かし、その旋律を追う。
 彼は海底に広がる珊瑚礁に視線を落とす。微細な泡が漂っていた。彼は珊瑚礁を傷付けないように細心の注意を払い、泳いでゆく。
 珊瑚の森が彼の前に広がっていた。そして旋律が僅かにその音量を増した。その音に導かれるように、彼は右手を伸ばしていた。
 それは彼は意識して行った訳ではない。何か外的要因に操られたと言う訳でもない。只気付いた時には手を伸ばしており、彼自身もその動作が当然の事であると感じていた。
 波留の手は珊瑚の中に差し込まれていた。指が硬い珊瑚の感触を覚える。彼はその辺りを優しく撫でた。すると、不意に手を突っ込んだ付近の珊瑚が、僅かに光を帯びていた。そして彼の右手には何かを包み込んだかのような感触がする。
 ゆっくりと右手の指を動かす。掌の方へと曲げ、その上にあるものを覆った。そして珊瑚に触れないよう、右手を極力ぶれさせないように珊瑚から引き抜いて行った。
 ダイバースーツに覆われた波留の右手が明らかになる。半ば閉じられたその拳の中から何らかの光が放射されていた。そして彼はその手に何かを握り締めているような感触を覚えていた。
 波留は指をゆっくりと解き始めた。慎重に海の流れに捉われないように、掌の上にそれを乗せたままになるように気を遣う。
 解放された掌には、小さな光の玉が乗っていた。それは薄暗い深海を穿つようなぼんやりとした光を放っている。波留はその光球が発する光をバイザーに当てつつ、それを眺めた。
 この形態を取っている以上、おそらくは何らかのジャンクデータだと彼にも推測出来た。問題はそれが何かと言う事である。実際に手に触れてみても、その情報は一切彼の脳内に流れ込んでは来ない。意味を成さないジャンクデータであるばかりか、読み込み不可能な形式に変換されてしまっているのだろうかと思う。
 その時だった。彼の生脳に、やけに明確にあの旋律が響き渡った。
 波留は目を見開いた。僅かに身じろぎする。
 ――これは…久島の記憶の断片か?
 彼はそう直感していた。理由などはない。只その自己主張めいた旋律を耳にした瞬間、その考えが彼の脳内に走ったのだ。
 波留は自らの直感を信じている。そしてあの旋律が関わった以上、おそらくその考えは的中しているだろうと思った。あの日も彼はこの旋律を追い、結果的に深海に落ち込んだ親友の意識に到達したのだから。
 何故その親友の記憶が今更メタルの海に漂っているのか。初期化された以上、メタルに溶けた彼の記憶も消失しているはずだったのに――波留はメタルダイバーとしての常識的にそう考えてしまうが、現在のメタルにはそれも通用しない場合が多い。
 ともかくそのデータは他のジャンクデータ以上に断片化してしまっている。解析しなければ何も判らないだろうと彼は踏んだ。
 ――ダイブチームリーダー。どうしました?ログアウトしていないのはあなただけですよ?
 その時波留の脳に、リアルから呼びかけてくるオペレーターの電通が届いた。それに彼は我に帰る。バイザーの下部に表示されているエアの残量の低下から、自分が浪費した時間が類推出来た。それだけの時間があったならば、他のメンバーは既にログアウト出来ているだろうとも想像がつく。
 それらを認め、波留は眉を寄せた。右手に視線だけを向ける。
 ――…いや。何かあったような気がしたけれど…気のせいだ。
 彼はそう答えていた。掌の上の光点から、バイザーに光がちらつく。
 そして彼は言いながら、右手をそっと顔の前に掲げる。視界に入った右手の先端に意識を集中した。慎重に、そこに展開している防御プログラムを制御し始める。
 彼が凝視する指先に光が走る。そしてその指が光に揺らぎ、手を覆っているグローブの先端が細かなヘクスを生じつつも消失していった。4本の指が露わになり、海水に曝され、水圧を感じる。
 それと同時に波留の脳には、海水が直接指に触れる感触が伝わってきた。痺れるような指先の感触が伝達されて来て、それは徐々に彼の脳を侵食してゆく。
 バイザーの中、波留は呼吸を整える。その感覚の流れに意識を持っていかれてはならない。そんな考えを抱き、彼は意識を制御した。そうしつつも右手を軽く動かし、手首の方向を傾ける。
 そうする事で掌の上に乗っている光球が、指先の方に転がってゆく。その先にある素肌に光点が触れた瞬間、ふっと光が掻き消えた。
 視界にちらつく光が消失したその直後、見計らったように波留は脳内に待機させてあったプログラムを再起動する。すると瞬時にその指先に光が走り、細かなヘクスが再度展開された。指先を包み込むように断片が群がり、消える。そしてそれらが海に溶けるように消え去った時には、彼の右手は元のようにグローブに覆われていた。
 ――どうしました?思考が乱れましたよ。
 脳に痺れのような感覚が未だに残されている中、オペレーターの淡々とした問いが波留に達している。それに、波留は首を横に振った。その感覚を脳から追い出そうと試みる。
 メタルダイブ中のダイバーの状況は、オペレーションルームにモニタリングされている。それは安全性の確保が第一に考えられているからである。オペレーターは波留のログを確認して、そう問い掛けをしてきていた。
 ――いや…何でもない。
 波留は顔を歪めつつもそう答えていた。今の彼はアバターの存在であるしそもそもヘルメットに覆われているので、「新鮮な空気」と言う概念は周辺に存在しない。それでも彼は気を落ち着かせるために、深い呼吸を数度行った。そうする事で痺れる脳に酸素を供給するイメージを持つ。
 首を巡らせると、前髪が目許に掛かる。そして波留はそれを感じた事で、自らの感覚が元通りに戻っている事を悟った。指先の素肌から流れ込んできた不特定多数の意識が自らの自意識に溶け込まないように意識を集中してきたが、どうやらそれは成功したらしい。
 ――待たせてすまない。早急に海面座標に向かい、ログアウトする。
 波留はリアルに待つオペレーターに対し、そう電通を飛ばした。そして足を動かし、水を掻く。視界が上昇してゆき、水を切る音が感覚を支配してゆく。
 ――了解しました。くれぐれもお気を付けて。
 量産型アンドロイドらしい淡々とした声が波留の電脳に響いた。どうやら彼女は波留が何をやったのか、その真相を全く把握していない様子だった。
 それでこそ危険を冒した甲斐があるものだ。波留は内心そう思っていた。
 
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