波留真理は深海を潜ってゆく。それは彼にとっては有り触れた日常だった。海と共に生きている彼には、海は普通の領域だった。ともすれば呼吸すら出来るのではないかと他者に勘違いさせるまでに自然に接していた。
 しかし今の彼が存在する場所は、通常の深海ではなかった。
 海水めいた液体は彼の周囲を満たし、彼はそれを切り裂くように沈降してゆく。海底や岩壁には珊瑚礁が敷き詰められており、美しい色を発していた。良く知られている「海」とは然程違わぬ光景が広がっている。
 しかし、彼の今の姿は通常のダイバースーツではない。彼が纏っているのはフルフェイスのヘルメットを含む全身一体型の装備である。身体を余裕なく覆うそれは、彼の動きを一切阻害しない。暗い深海に至っている事もあり、ヘルメットのバイザーには自動的にライトが点灯していた。彼の視界を照らし出す。
 そして彼のバイザーに、目まぐるしくダイアログが表示されていた。複数のダイバーの現在地の三次元座標や装填プログラム――様々な情報がそこに並ぶ。彼はそれを眺めやりつつ、自らの視界の向こうに広がる深海を見やっていた。
 彼の腰にはベルト状の装備が巻き付けられていて、そこには短刀や籠が下げられている。その籠の中には光の球体めいたものがいくつか存在し、彼の動きや海流に合わせて籠ごと揺れている。
 ここは通常の海ではなく、情報の海だった。彼らは大多数の電理研職員とは全く違う形式を用いてコーディングを行っていた。メタリアル・ネットワークに直接ダイブし、何のプログラムも介さずに作業を行うメタルダイバー達の仕事風景がそこにある。
 ――ダイブチームリーダーへ。そろそろ減圧限界です。ログアウトして下さい。
 波留の脳にそんな電通が届く。ヘルメット越しとは言え、彼は右手でその耳元を押さえた。並ぶダイアログを確認し、彼は電通を飛ばす。
 ――皆さん、オペレーターから減圧限界との指示が来ました。サルベージ作業はその辺で、そろそろ切り上げて下さい。
 彼は複数の相手に対して同じ内容の電通を行っていた。それに対して各々の相手から了承の返答が届く。それに従い、表示されているダイアログの各ダイバーの欄にフラグが点灯した。
 波留の指示を無視して作業を続けようとするダイバーは存在しない。自分は余程信用されているようだと波留自身は胸を撫で下ろした。彼の人望も第一にあるだろうが、自らの自意識を危険に晒してまで凡庸な作業を行おうとする愚かなダイバーがチーム内に居ない事も重要である。
 彼は周辺海域を見回しながら、様々なダイアログを確認していた。各ダイバーのエアの残量は充分だった。彼らの現在の座標位置を確認すると、一様に海面座標に向かって上昇している。現在のメタルは不安定だが、エアの残量には余裕がある。おそらく何事もなく、順次ログアウトしてゆく事だろう。
 そして彼は自身の情報を眺めていた。彼もステータス上は何の変哲もない。彼はこのダイブチームを任されている立場であり、所属しているダイバーを無事に帰還させる任務がある。それは完了しつつある今、自分もログアウトする時期だった。
 脳内に表示しているとは言え、実質的に視界を邪魔するダイアログを閉じてゆく。意識を自らの作業に集中しようとした。
 その時、彼はこのメタルの海に、何らかの音を聴いていた。
 それはとても微かな音だった。波留以外の人間では、水流の音などに掻き消されて感じ取る事は出来ないようなものだった。波留は敢えてその時ダイアログを開かなかったが、おそらくはセンサー上にも反応はない。
 波留は両手を耳の辺りに当てる。瞼を伏せた。意識を研ぎ澄まし、その音を聞き分けようと試みた。水流の音から聞き違えたのか、何らかの電通を偶然拾っただけなのか。それらの可能性も考慮する。
 深海の海流はゆったりとしている。波留がその場に留まるようにしている今、彼が波を起こさない以上、それは顕著である。そんな中でも泡が漂い破裂する音は彼の耳に届いてくる。それらの邪魔を無視し、その向こうに聴こえるはずの音に意識を向けた。
 それらの雑音に紛れてはいたが、波留の耳には確かに微かな音が響いてくる。彼はそれを確信した。
 それは単なる音ではない。何らかの音階を形取っていた。旋律と表現して差し支えがないような代物である。
 メタルに漂う情報は、泡や光球の形を取る事が大半である。メタルそのものに固着した情報となると、珊瑚礁化してしまっているのが常だ。情報が、音そのもののの形のままメタルの海に漂っている事など、通常では考えられなかった。
 しかし、実際に波留の耳には旋律が届いている。現実はそうである以上、彼はそれを認めるしかない。
 初期化と再起動を経て40日以上が経過している現在だが、メタルは未だに不安定だった。だからこそ彼らダイバーがジャンクデータのサルベージを行ったり、電理研から委託されたプログラムを直接メタル内に放流したり埋め込んだりする仕事を行っているのである。そう言う状況であるメタルならば、生の音律データが漂っているなどと言う不具合が出ていてもおかしくはない。波留はそう考えた。
 しかし、それだけとは言い切れなかった。何故なら、波留にはその旋律をメタル初期化の以前にも聴いた記憶があるからだった。
 そしてその旋律は重要なものとして、彼の生脳の記憶に刻み込まれていた。7月のあの日、彼が情報を求めてメタル内を奔走した正にその日に聴いた旋律だからである。
 ――こんな旋律が、今更何だと言うのだろう。波留は怪訝に思った。しかしその旋律はあの日同様に、自身を導こうとしているのかもしれない。彼はそうも思った。記憶に定着しているものと同じ旋律を耳にした以上、無視は出来ない。
 彼は耳を済ませた。メタルダイブ中に聴覚そのものは意味を成さない。厳密に表現するならば、五感を研ぎ澄ませて「音」を感じ取ろうとした。
 
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