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波留の眼前には様々なダイアログが表示され、展開されてゆく。彼の命じた検索ワードに対応した情報がメタルから汲み上げられ、電脳情報としての形を取る。それが波留から見た視点からの光景だった。 客観的に彼を見るならば、現在の彼はドリームブラザーズの居住スペースのリビングに居る。彼の足元には相変わらずシュレディンガーが丸くなって眠っていた。日常の仕事を終え夕食も摂り、ソファーに座ってテーブルの前で落ち着いた時間を過ごしている状況である。 しかし現在の彼は、ある種の奇妙な格好をしていた。一般的なフルフェイスのヘルメットよりも更に大きな物体を頭から被り、首から上をすっぽりと覆っている。 その大部分は透明な物質で構成されており、接近したならば彼の頭部は透けて見える事だろう。しかしそのガラス状の物質が覆う前面部分には、真面目腐ったような顔文字が表示されていた。 それは接続バイザーと言う名称の装置で、電脳化していない人間が擬似的にメタル内情報を利用するための機材だった。その形状から通称メタルオカマとも炊飯器とも呼ばれるそれは、どうにもコミカルでユーモラスな印象である。 この接続バイザーではなくペーパーインターフェイスを用いても、メタルに接続して情報を拾う事は可能である。しかしそれはあくまでも小さな携帯端末であり、視覚的な情報を表示出来る空間は限られている。そしてキーパットでの操作も必要としており、電脳化している人間のように脳でコマンドを試行して操作する事も出来ない。 ペーパーインターフェイスでのそれらの欠点を、この接続バイザーでは補う事が出来た。しかし重さは然程ではないが形状が形状のため、普段から持ち歩いて利用するには不便な部分が大きい。そのために未電脳化者は携帯端末のみを持って出歩く人間が大半を占めていた。電通やメールの処理などは携帯端末のみで事足りるからである。 しかし今の波留は自らが居候している家で落ち着いている。ここでは接続バイザーを装着してメタルを利用するには適した環境だった。 普段から彼は、店舗の運営情報などはこうやって接続バイザーを通してメタル内で整理するようにはしている。が、今彼が行っている作業は、それではなかった。 バイザーの前面に表示される顔文字が、困ったようなアイコンに変化する。その時波留は、バイザーの向こう側で確かに悩んでいた。 ――求める情報に行き着かない。メタル内での検索は、1ヶ月前には当たり前に行っていたはずだった。その勘はまだまだ衰えていないはずだと彼は思っていた。しかし、現状は違っていた。 ――となると、本当にメタルに情報が落ちていないと言う事になる。波留はバイザーの画面にダイアログを表示させたまま、瞑目した。擬似的な電脳体験であるこの状態では、そうすれば脳内からメタルの情報を遮断する事が出来る。そうして前時代のパソコンのように目が疲れるようなちらつく視界から逃れ、考えを纏め始めた。 彼が今検索していたのは、あのイルカの事だった。 波留はあのイルカと8月初頭のダイビングで出会った。そしてそれ以降も波留が単独で海に潜った日には、必ずそのイルカが何処からかやってくるようになっていた。 それだけではない。波留が独りで桟橋で様々な作業を行っていた日にも、イルカはまるで彼を呼ぶように遠い海に姿を現すのだ。 それらのイルカの行動は、本当に波留が独りで居る時のみだった。彼はダイビングショップでインストラクターをやっている以上、海には個人的な趣味以外でも潜っている。特に8月中は夏休みだったため、趣味でのダイビングよりも仕事で潜った日の方が多かった。 そして潜るポイントも、趣味のポイントとあまり変化させていない。流石にあの奇妙な「深海」部分に初心者を誘導する訳にはいかないので、その付近は避けてはいる。それでも近所をポイントと設定していた。 そう言う状況だと言うのに、あのイルカは客を連れている時には一切姿を見せなかった。傍にやって来ないのは人間がたくさんいるから当然なのかもしれないが、そもそもイルカとは好奇心旺盛な生物のはずである。人見知りする事などあるのだろうか?――と波留としては思ってしまうが、そこは人間の個性のように個体差もあるだろうから不問に処す。 問題は、船を出して沖合いを見渡しても、イルカの影が一切ない事だった。何かを察知して避けているのか、本当に姿を見せないのだ。波留単独の時は桟橋に居ても、遠洋でジャンプしていると言うのに。 あのイルカにまつわる謎はそれだけに留まらない。 50年の眠りから覚めて以降の半年間は車椅子の身分だったとは言え、元はダイバーである。海に潜れない日々が続いていても、海の事を忘れた日はなかった。だから、老人の日々でも人工島近海のデータはメタルから常々引き揚げていた。 それに拠ると、人工島付近にはあの50年前の事故以来、イルカは回遊していないはずだった。あの事故は建築中の人工島を壊滅させただけではなく、自然な海底部にも甚大な被害を与えていたのだ。そして去っていった生物達も決して少なくはないと、当時からの調査結果が告げていた。 そう言うデータに老人の当時行き着いていた事を彼は覚えていたし、再起動後で情報を新たに収集している段階の現在のメタルの海においても新事実は発見されなかった。 ならば、あの子は一体何処から来たと言うのか。 波留はそれに引っ掛かりを覚えていた。事実のみが先行し、それを裏付ける状況証拠が存在しないのには、少々座りの悪さを感じざるを得ない。 あの、存在しないはずの「深海」の発見も、何か関連しているのだろうか。8月初頭のフジワラ兄弟とのダイビング時に見た光景を思い出す。 海がメタルと繋がっていると言うならば、あの子もメタルに生きるイルカであって、リアルでは幻なのだろうか。 波留はその可能性を第一に考えたが、未電脳化状態にある自分がメタルからの影響を受けるはずもなかった。 何より視覚だけではなく、全身でその存在を感じているのである。手に「彼」の肌の感触を覚え、「彼」が傍で泳いだ事で発生した海の流れを身体に受けたりもしている。メタルに繋がってもいないのにそれらを全て幻としてリアルにフィードバックするなと、あり得ない話だった。 自分の脳が何か別の物を受信しているのだろうか?それによる副作用があのイルカだろうか?――「地球律」と自ら名付けた現象を感知出来る彼としては、その可能性も考慮する。しかしそれも、フジワラ兄弟が確かにあのイルカを視認した段階で、否定出来た。自分だけが見た訳ではないのである。 となると、やはりあの子はリアルに存在するイルカと言う事になるのだろうか?だとすれば、本当に何処からやって来た?――話はそこに戻ってしまう。 あの種のイルカならば、オスは単独で回遊していてもおかしくはない。しかしこの広大な人工島周辺の海域で、他の個体が全く確認されていないと言うのは、どういう話なのだろうか。群れからはぐれたイルカがこの海に辿り着いたのだろうか。遥か遠い外洋を思うと良く無事だったものだと波留は感じる。 だとすれば保護するべきなのかもしれないが、一緒に泳ぐ限り弱っている様子もない。ならば自然のままに生かしてやるべきだった。自然のイルカならば30年程度の寿命があるが、保護されるとそうもいかない事例が多いのだから。 そのように波留は色々と考えを巡らせるが、それらはあくまでも仮説に過ぎない。事実と認定するには、情報が圧倒的に足りなかった。あの8月初頭、「海底」を発見した当時から殆ど状況は変化していない。新たな情報など得てはいなかった。 |