真昼の太陽は天頂から照り付けて来ている。
 その陽光を頭上からまともに受けている波留は、自らの黒髪がちりちりと音を立てている気さえした。身体に含まれる水分や汗が蒸発していく音を感じているのかもしれないと思う。
 彼はダイバースーツを全身に着用し、桟橋の先端に立っていた。背後には彼が居候しているドリームブラザーズの従業員用裏口が見えている。彼が立つ隣には、ハーバーに係留されたままの店舗所有の船が波を受けて微かに揺られていた。
 ダイバースーツでは、深海に潜るに従い水温が下がる海水から体温を守るための役割が大半を占めている。そのため、地上に居る際には、全身を覆い保温する効果によって暑さを感じるものだった。この島は常夏の気候なのだから尚更である。
 顔に装着している大振りのゴーグルは、額に上げていた。その状態で波留は桟橋の先端から海をじっと見ていた。今日の海は相変わらず穏やかで、静かなさざなみが彼の耳に届いてくる。遠い水平線に向かい、光の波間が広がっていた。現在、彼の視界に入る海には誰も出ていないらしく、船影などは全く認められなかった。
 波留は、フィンを装着した足を数歩進める。桟橋の先端のぎりぎりにまで自らを進めた。
 そしてゴーグルに手を掛ける。レンズ部分を引き下ろし、目の辺りをきちんと覆うように装着する。後頭部に回されたゴム製のベルトの具合や掛けられた位置を指で調整し、決して外れないようにしておく。
 それが終わり、手を身体の横に下ろす。息を大きくついてから、軽くその場で跳んだ。そのまま彼は、足の先端から、海へとその身体を沈み込ませた。





 波留は海中に漂いながら、自らの周りに満ちる気配を全身で感じていた。
 彼は静かに瞼を伏せ、身体の力を抜いて浅い水深に浮かんでいる。海中にある以上呼吸は止めているが、数分程度ならば特に苦しさを覚える事もないのが彼の特性だった。
 閉じられた瞼の向こうにはゴーグル越しに海が広がり、それは限りなく深くまで続いているように見えた。
 波留が浮かぶ浅い部分では、天頂に君臨する太陽の光が惜しげもなく降り注いで来ていて、海中であっても明るさを保っている。しかし空からの陽光も、海中を進むにつれ、深海の闇に存在感を奪われてゆく。波留が確保している視界も徐々に暗くなってゆき、珊瑚礁が栄えているであろう海の底は見通せない状態だった。
 今日は船を出さず、自分で沖まで泳いで来ていた。船を出しても良い距離ではあったが、昨日甲板などを綺麗にしたばかりだった。そのために自らひとりのプライベートのために船を出す気になれなかったのだ。泳いでも充分に大丈夫な距離でもあったために、こうして彼は平穏に浮かんでいる。
 船を出さずに近くに停泊させていないため、船のエンジン音や引き波などは彼の元に一切届かない。自然で穏やかな波が彼の身体を揺らすばかりだった。
 ドリームブラザーズ店員として行う普段のレジャーダイビングと違い、周りに人間も居ない。客である他人に気を遣う必要もなく、人間そのものの気配も全く彼の周りにはなかった。
 彼の長い黒髪はダイビングの邪魔にならないように簡単に纏め上げてはいたが、波に洗われると結んだあちこちから黒髪の枝が現れてきて、海水に揺らぐ。耳元では静かな水音が響いていた。
 周りには煩わしい存在は何もない。海と一体になっている感覚が波留に伝わってくる。漂う腕と手が、波を感じる。口許には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
 彼は不意に、瞼の向こうに柔らかな光を感じたような気がした。海中に伸ばされた指先が僅かに痺れるような感がする。
 何かを確信したような表情をして、波留はゆっくりと瞼を開いていった。
 彼が覗き込んでいる海の奥底から、美しい流線型の存在が姿を現していた。それは楽しそうに身体を振ってくねらせ、勢い良く上昇してくる。暗い深海と明るい太陽の光が届くこの層に至ると、そのイルカがまるで光を帯びているようにも見えた。
 波留は、確かにその鳴き声を耳にした。口を開けると僅かに息が漏れ、口許に泡が浮かぶ。
 接近してきたその「彼」に、波留は右手を伸ばした。上がってきたその勢いのままに身体に触れると、滑らかな感触が指の腹に伝わってきた。そして視線がお互いにかち合う。そのイルカはまるで笑っているかのような瞳をしていて、それを相手する波留もまた目を細めて微笑んでいた。
 まるで波留の胸に飛び込んできたような素振りを見せたイルカは、波留の傍らで上昇を停止していた。ヒレを器用に動かしてその場に留まっている。
 波留はその身体をそっと撫で上げた。掌にその特殊な感触を覚える。そして人間に身体を撫でられてもそのイルカは一切惑う事もなく、むしろ嬉しそうに自ら擦り寄ってくる有様だった。
 まるで子供でも相手にしているかのように、波留はそのイルカの頭を撫でる。顔を上向きにしたイルカと視線が合い、頷いて見せた。
 そして波留は自らの身体を持ち上げた。足を動かし、フィンで水を掻く。上昇し、海面を目指した。反動と浮力を利用し、水を掻く仕草は最小限に留めるのが彼の技術である。
 浅い水深に漂っていた事もあり、程無く彼は海面に顔を出していた。顔に水以外の感触を久々に覚えつつ、彼は口を開けて大きく息をついた。それから徐々に息を慣らしてゆき、数分振りの呼吸で再び空気を肺に取り入れて行った。
 彼に遅れて、その傍らにちょこんと鼻先が突き出されてきた。そのままぬっと静かにイルカの頭が海面の上に現れる。頭頂部にある噴気孔から蒸気のような白い気体めいたものが僅かに噴き出した。彼もまた呼吸をしに来たらしい。
 人間同様に肺呼吸であるイルカは、潜水能力に長けているとは言え息継ぎしなければ生きていけない。だから水面に顔を出すのは当然なのだが、まるで波留に付き合って浮かび上がってきたかのような素振りだった。
 イルカが波留の方を向き、綺麗な歯並びを持つ口を軽く開けてみせると、まるで笑っているような光景である。両目を瞬かせ、独特の鳴き声を上げた。
 波留はその様子に大きく頷いた。寄り添うイルカの身体に腕を伸ばし、再びその肌に触れて撫で上げる。
 そして彼は、軽くその場で飛び上がるように海水を蹴る。息を吸い込んだ直後、再び海水に飛び込むように身を沈めた。
 それを追うようにしてイルカもダイブする。まるで戯れて競争するように、人間とイルカは光が減算してゆく深海を目指し、潜って行った。
 
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