…波留は唐突に膝の上に何かが乗るのを感じた。目にしている資料から視線を外し、その方を見る。
 足元に居たはずのシュレディンガーが、何時の間にかに彼の膝の上に飛び乗ってきていた。動く気配は全く感じていなかったと言うのにである。それは猫が持ち前のステルス機能を発揮させたのか、それとも波留が資料閲覧に集中していたからなのか。どちらなのかは彼自身には判らない。
 ともかく灰色猫は波留の膝の上に飛び乗って以来、丸くなって動かなくなってしまった。猫の高い体温が、彼の履いている厚手のジーンズを通して伝わってくる。たまに洗ってやっているもののやはり猫である以上は若干の獣臭さは抜けないもので、膝の上で眠られるとその匂いが彼の鼻腔をくすぐった。気持ち良さそうに眠っているその背中を撫でると、心地良い毛並みの感触がする。
 波留は苦笑気味に笑い、溜息をついた。手にしていた資料をテーブルの上に置く。TVの中では相変わらず深刻そうな顔をした面々が日本語で会話だか討議だかを行っているが、彼は興味なさそうにリモコンを操作してそれを消した。
 それから膝の上の猫を抱く。まるで置物のように両手で丸いまま抱えるように持ち上げると、猫はその姿のままで維持されていた。その状況に少々の呆れと驚きを抱きつつも、波留はシュレディンガーをとりあえずソファーの足元に戻す。
 彼はソファーから立ち上がり、その背もたれを倒した。ベッドの状態にする。そして室内灯を最小にまで絞る。毛布を片手にソファーに寝転がった。
 波留がソファーに寝転がった際の音や毛布が巻き起こした僅かな空気の流れなどを感じ取ったのか、ソファーの足元に丸くなった状態で収まっていたシュレディンガーが薄く目を開けた。首を巡らせ、薄暗い室内を眺めやる。テーブルの上に置かれたままの資料にその視線が行き当たったが、すぐにその視線は外れた。
 そして妙に俊敏な動きで起き上がり、ソファーに向かって飛んだ。横倒しの状態で横たわっている波留は、その胸元のスペースを空けていた。そこに猫は飛び乗る。
 ソファーのスプリングが軽い軋みを上げるが、既に波留は眠っていた。スペースがあるとは言え若干狭い場所に、彼は丸くなる。まるで人間に寄り添うように収まり、再び動かなくなった。
 人間と猫が眠りに就き、TVも消された今、室内に響き渡るのは外から伝わる微かな波音だった。そして僅かな灯りの中、テーブルに置かれたままの資料はその蒼い海の表紙が薄く照らし出されている。
 そこには唐津の文字がデザインされていた。
 
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