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朝方のうちにフジワラ兄弟を仕事に送り出した後に、波留は再びエプロンを装着する。そして本格的に家事に取り掛かった。 昨日、ふたりが帰宅した事で持ち帰ってきていた衣服類を何度かに分けて洗濯してゆく。その合間に、家の各所に掃除機を掛けたり雑巾掛けをしたりと掃除を行う。 或いは、キッチンの掃除のついでに食材のチェックを行ったりもした。兄弟に久々に食事を振る舞った事でストックが一気に消費されたりもしたが、また暫くは彼自身のみの生活になるようだった。そのために、冷蔵庫の中身が多少心細くとも構わないと感じていた。 彼の生活や店舗においても欠かせないものとなりつつある缶入りの茶葉は、8月以来常にメジャーな種類をいくつか保有している。これも暫くは切らしそうなものはなかった。予約客が暫く居ない以上、食材同様にこのままで良さそうだった。 そんな家事作業をしているうちに、午前中はすぐに費やされる。太陽が天頂に昇った頃にようやくのそのそと姿を現してきたシュレディンガーにミルクを出してやりながらも、当人は特に何も食べる気がしない。 遅い起床の直後に空腹を満たした灰色ぶち猫は、すぐにソファーの上でだらしなく横になって眠ってしまう。波留はそれに苦笑を浮かべつつ、部屋の扉をそっと閉めて出て行く。この猫が活発に動き回る姿など殆ど見せた事はないのだが、一応外に出てこないように処置をした。 そのまま彼は裏口を抜け、店が借りているハーバーに出る。潮の香りが風に乗って波留の元に漂ってくる。その海の波間や桟橋の板目には夏の陽光が眩しく降り注いできていた。 そのハーバーには小型船が停泊している。それはドリームブラザーズ所有の船であり、波留も仕事として操船する日々が続いていた。 彼は横付けされているその船に乗り込んだ。港湾内まで至っている僅かな波や乗り込んできた彼の体重で船体が若干揺れる。 彼は船室への扉に向かい、その隣の壁面に設置されているコンソールに携帯端末をかざした。直後、微かな電子音と共にコンソールが柔らかな光を帯びる。そして扉が開錠された。彼はその船室の中に身体を滑り込ませ、暫くしてから両手にデッキブラシやバケツなどを持って出てくる。 甲板備え付けの海水濾過装置を稼動させ、真水を甲板に撒き散らす。それから手にしたバケツに突っ込まれていた洗剤のボトルから、白く泡立つ液体を軽くばら撒いて行った。これは人工島製品らしく環境に配慮した洗剤であり、海に洗い流しても自然の物質として分解されるようになっていた。 バケツに水を注ぎ入れ、そこにデッキブラシを突っ込む。そして波留は両手でブラシを構え、腰を入れて甲板を磨き始めた。 ダイビングショップには週末まで予約客が入っていない事もあり、その間に甲板をきちんと掃除しておく事にしたのだ。忙しい8月中にも休みの日を機会として簡単な洗浄を行っては来ていたが、それでも連日の稼動で甲板のあちこちには汚れが目立ち始めて来ていた。 波留は眩しい陽光を背中や頭に受け、じんわりと汗を掻き始めてゆく。陽が当たる箇所に熱を帯びるのを感じた。それでいてデッキブラシを掛けてゆく下方からは冷たい水が飛び散ってきて、気持ち良さすらあった。 ふと手を休め、額から伝う汗を右手の手の甲で拭う。こう言う仕事は、彼も以前からこなしていたものだった。それを思い出す。 50年前の頃、電理研にて専属ダイバーの任に就いた時期には、彼は自分のダイブをこなした後にそのデータ分析に忙しい船内の研究職の仲間達をよそに、甲板で好きにやっていたものだった。後々用意する食事の足しにすべく釣りを試みたり、単に海を眺めていたり、今日のように船員宜しくデッキブラシを持ち出して掃除してみたりと様々な行動に出ていた。 真夏に近い太陽の光を頭に受けていると、ちりちりとした音を感じる。その状態で下を向き続けていると、軽い立ち眩みを覚えた。如何に体力がある波留であっても、こう言った状況ではそれは殆ど役に立たないものだった。彼は身体のあちこちに流れる汗を感じ、家からミネラルウォーターのペットボトルを持ってくるべきかと思った。 そんな最中、ふと、彼の元に濃い潮の香りが届く。そして風が大気を揺らすような音を聴いた。 波留は、それらが何故か気になった。甲板から視線を上げる。デッキブラシを軽く甲板に突き、身体を伸ばして沖合いを見やった。 その時、紺碧の水平線の彼方に、流線型の存在が飛び跳ねていた。 それは大きく宙を舞い、光に満ちた空にその身を晒していた。すぐに飛び込むように落下し、着水する。巻き起こった水飛沫は遠い陸側の波留からも見て取れて、光を弾いていた。 その様子に、波留は目を細めた。太陽の光とそれを反射する海面とを目の当たりにした眩しさから来る行動ではあるが、それと同時に懐かしいような嬉しさから来る感情的な仕草でもあった。 彼はその海に向かい、軽く右手を挙げてみせる。すると、まるでそれを海面の下から把握していたかのように、その存在が再び舞い上がるように海面から飛び出してきた。そして着水後には今度は潜る事はしない。海面に背びれを突き出した状態のまま、辺りを周回するようにゆったりと泳いでいた。 互いの位置はあまりにも遠く、聴こえるはずもないのにその鳴き声が波留に届いたような気さえした。そして気持ちの良い風が吹き抜けてゆく。 波留は右手を耳に添え、その音を聴こうとする。目を細めて海で泳いでいる存在を見つめ、口許からは笑みが零れていた。 |