9月2日の朝を迎え、ユージンが目覚めて自分の部屋から起き出した頃には、カウンターキッチンに既に波留が立っていた。
 その居候は、エプロン姿に長髪を上げた状態で、調理器に掛けられた鍋に向かっている。その空間には食欲を刺激するような良い香りが微かに漂ってきていた。
 そう言う光景は、フジワラ兄弟が帰宅している朝には毎日目撃する事が出来る。それがこの1ヶ月における日常だった。
「――おはようございます、波留さん」
「おはようございます」
 大きな図体を軽く屈め、頭に手を当てて挨拶するユージンに、波留も笑顔で応えた。鍋をおたまで掻き回している。
 居るべき猫の姿は見えない。どうやらまだ何処かで眠っているのだろうとユージンは思った。
「スープは出来上がっていますし、これから他の料理も作りますね。朝食の前にアユムさんを起こして来て下さい」
「いつもいつもすいません…」
 ユージンはますます身体を小さくして恐縮している素振りを見せる。その様子に波留の笑顔は相変わらず爽やかに笑った。
「いえ、これが勝手に決めた僕の仕事ですから」
 波留は毎日、朝日が昇り始めた時間帯に起き出し、まず海洋公園を走りに行くのが常である。常夏の島ながらの早朝の空気を全身に感じつつ、海沿いの周回コースを流す。それからドリームブラザーズに戻り、シャワーを浴びて汗を流し去る。
 それをこなした後に朝食を摂るようにしている。キッチンに立って自分で作る日もあれば、近辺のカフェに食べに行く日もある。今日は家主の兄弟が在宅と言う事もあり、こうしてまともに朝食を作っている様子だった。
 寝惚け眼のアユムがカウンターキッチンに姿を現した頃には、波留の手によって朝食がすっかり出来上がっていた。その時には波留は、3人分の料理をカウンターに並べ終わっており、上げていた長髪を下ろしに掛かっている。
 そう言う状況でまともで暖かな朝食を摂った後からは、兄弟は今日からまた暫く電理研に泊まり込んでメタルダイバーとしての仕事をこなす事になっている。それに応じ、波留は彼らの着替えやその日の弁当なども準備していた。
 何から何まで波留の世話になっている格好のフジワラ兄弟である。彼らとしては、この店員兼居候が転がり込んで来て以来、自分達の生活レベルは相当に向上してしまっていると認めざるを得なかった。
「――でも波留さん、ついでだから何日かおきにでも電理研まで差し入れに来てくれてもいいのに」
 それでも玄関先にて、兄が気楽そうな口調でこんな事を口走ったのには弟としては呆れてしまう。何処まで図々しいのかと思ってしまう。それでも口で嗜めるのではなく、上背のある彼が軽く力を込めて上から兄の後頭部を突き飛ばす程度である。
 そんな兄弟のある種の仲の良さを目の当たりにしつつも、波留は笑顔を浮かべていた。
「僕はもう部外者ですよ」
「そんな事ないでしょ。波留さんの認証コードが消去されてるとは思えないし、そもそもアンドロイド達にも顔パス状態でしょ」
 ――いや、アンドロイド達に顔パスの概念はないと思うよ、兄さん…。
 気楽な兄の口調に、内心で弟が電通にも乗せない突っ込みを入れる。2061年現在の技術基準では、AI達はあくまでも認証コードを主として人間を識別する。眼底情報での認証がアユムの言う所の「顔パス」と言う表現になるのだろうが、おそらく彼はそれを意識して表現していないと弟は思っている。
 そもそもセキュリティを重要視するならば、複数の認証手段を併用して人間を識別するのが望ましい。それは、技術の最先端を突き進む電理研所有のアンドロイド達でも同様の話だった。
 兄弟のやり取りを微笑ましい気分で見やりつつも、波留は笑顔を浮かべるのみだった。
 その笑顔には、僅かに苦笑の成分が含まれつつある。更にごく少量ではあるが、確実に寂しげな印象をも漂わせていた。
 
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