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「――お仕事帰りでお疲れでしょう。お茶を淹れますね」 女性の化粧や香水など、店舗内には客の気配が未だに残留している。口紅がついたカップなど、判り易く客の痕跡を残しているカウンターを片付けつつ、波留は笑顔のままにアユムに言った。 言われた方は曖昧な笑みを浮かべ、頷く。彼の弟は一旦席を外している。現状では波留に様々な仕事を任せているにせよ、帰宅した以上彼なりにやろうと思っている雑務は存在しているからである。 独り暇なアユムは、カウンターから出てきてトレイの上に手早くカップ類を乗せてゆく波留を見やって言った。 「波留さん…忙しそうですね」 「8月中は夏休みでしたからそこそこでしたが、もう9月ですからね。週末にしか予約は入っていませんよ」 波留はカウンターを片付ける手元から視線を外す事無く、傍に居るアユムにそう答えていた。その口許からは笑みが消える事はない。 彼の発言に、アユムはようやく自らの電脳を店の業務メタルに接続する。脳内で日報などを展開させ、利用客のリストを表示させた。 客の入り具合などには全く関与していないアユムだったが、そのリストを眺めるに、8月は自分達のみしか店に居なかった7月までの時点よりもかなり忙しい事になっていた。それはメタルダイバーではない店専属状態の店員が加入した事で、予約を取って営業出来る時間帯に余裕が出来た事も大きいだろう。 しかしアユムには、もっと大きな理由があるような気がしてならない。今こうして女性客の様子を目の当たりにすると、そう思ってしまう。 しかもあれは今日だけの様子ではない。電理研からたまに帰宅した際に、彼が店舗にて大抵見掛ける光景だった。そんな気持ちのままにアユムは波留に話を向ける。 「やっぱりお客さんにアドレスとか教えてるんですか?」 「…いいえ?」 アユムの言葉に、トレイを持ってカウンターの向こうに撤収しようとしていた波留は足を止めた。若干振り向き、怪訝そうな声で否定する。 「僕は電脳化していませんから、ダイビング中に電通でサポートの指示をしたりも出来ませんからね。お教えしても意味がありませんよ」 波留はカウンターの向こうに身体を運び、流しに使用済みのカップ類を丁寧に下ろしてゆく。そして棚を開けてガラスコップを手に取りつつ、アユムに答えていた。それは真っ当な返答だった。 人工島のダイバーとしては、バディを始めとして共にダイブする人間とアドレスのやり取りを行うのが常識である。それはダイバーだけではなく、他業種においても同様だった。プロ同士のダイビングではなく素人に対してインストラクターを行うならば、当然とも言える状況である。 彼らは電通により仲間や生徒や客などの位置を把握し、彼らに対して随時指示を出すことが出来る。可能ならば各種プログラムを任意でインストールし、彼らの身体状況がどうなっているのかさえも把握する事が可能だった。客観的に相手の状況を知る事が出来る訳である。 しかし、波留は電脳化していない。その立場は、この人工島住民の中では少数派である。 未電脳化者とは、人工島にて普通に生活していては出会う事がないような、そう言う酷く珍しい存在ではない。それでも様々な事情から電脳化を選択しない人間は、電脳化している人間にとっては珍妙な存在だった。 そんな風に未電脳化者が、ダイビングのインストラクターをやっている。8月以降、このドリームブラザーズを利用しようとする客は、まずそれに戸惑う事があった。 全くの初心者ならそのまま流されるものだったが、他の店や今までのこの店での経験者は若干の引っ掛かりを感じるのが常である。何せ、ダイビングとは呼吸が阻害される海中で行う以上、完全に命の危険を排除出来ないスポーツである。そう言う場所だと言うのに、未電脳化者に命を預ける羽目になってしまうのだ。 電脳が常識となっている人工島住民にとっては、それは危機感を抱くのに充分な事情だった。だから波留もまず、自分が未電脳化者である事を説明して了承して貰ってから、ダイビングの予約を取る事にしている。 しかしメタルがない時代には、それでもアイコンタクトや身振りや手指による様々な符号を用いて指示を送り、それによって大した事故もなくダイビングをやってきたものである。 そう言う過去の歴史も同時に告げ、客を安心させるのもまた波留の務めだった。自分は現在のこの人工島においても、その手法を押し通しているのだと。 彼の事情を知りダイビングを断念する客も稀に居るが、大抵の客は彼の誠実な態度と他の客の評判から、未電脳化者である波留をインストラクターとしてダイビングを行う事を了承する。 そしてダイビング当日、波留は数名単位の客相手に、海中においてもきめ細かく気を遣った。彼は、電通もしていないのに全てを把握したような指示を出してくる。その指導は概ね好評だった。電通に頼っていないために、却って煩わしい部分もないのも他の店にはない長所となりつつある。 そう言う事情も、アユムは理解していた。しかし、彼が波留にこの話を向けたのは、そう言う事情を鑑みての事ではなかった。彼は今まで色々と置かれていたカウンター席に着きつつ、言葉を繋ぐ。 「それはそうですけど…さっきの女の子達とか、それでも波留さんのアドレス欲しがりませんでしたか?」 「そうですねえ…」 波留はカウンターの向こうで紅茶ポットを手にしていた。彼の目の前にはロックアイスがたくさん入ったガラスコップが置かれていて、その上部には茶漉しの網が設置されている。彼はその上からポットを傾け、お茶を淹れ始めた。 「大抵の方に訊かれるんですが、ダイビング中に電通しない以上意味がないので、全てお断りしています」 僅かに苦笑を含ませたような表情を浮かべ、波留はコップに注がれてゆく紅い液体に視線を落としていた。熱い湯だったそれは、注がれてゆくに従って、コップに満載された氷を溶かして冷やされてゆく。氷が音を立ててひび割れ、溶けて小さくなって行っていた。カウンターから紅茶の香りが微かに漂う。 波留はそのコップから茶漉しを外し、ストローを差す。そして丁寧にコップを持ち上げた。アユムの前にペーパーコースターを置き、その上に静かにコップも置く。 アユムは軽い会釈をしつつ、波留の手が離れていったそのコップに、自らの手を差し出す。包むように手にしたコップからは水滴と内部から伝わる冷たさが感じられた。 コップから伝わる汗に手指を濡らしつつ、アユムは何だかげんなりとした心境に陥っていた。波留に対し、若干肩を落とした風な態度を取る。 「あのー………波留さん。何で大抵の子にアドレス訊かれるのか、まさか…全く判ってないんですか?」 「………え?」 アユムの台詞に、波留はきょとんとしていた。ユージンのためのお茶を淹れたコップにストローを差しつつ、不思議そうな顔をしてアユムを見やる。 その態度に、アユムは溜息をついた。――どうやらマジで、この人はそう言う事が判らないらしい。内心、投げ槍になってしまう。 |