安息義務とは、電理研で働く人間にとっては業務の一環である。それは、わざわざ電理研内に複数のリラクゼーションルームが準備されている事からも伺える。
 そしてその義務は、電理研から仕事を委託されている外部のメタルダイバーであっても、事情は変わらない。電理研のダイブルームに勤務する際は勿論の事、別の場所からダイブする場合においても一定時間毎に電脳を休める事が推奨されている。
 だから、このフジワラ兄弟も、連日電理研に出勤し時には泊まり込んでダイブの依頼を着実にこなし続けているにせよ、電脳についての休息は定期的に確保している事になる。
 それでもそれは充分な休息とは言い難い。しかし少なくとも、電脳に障害を引き起こしたり過労により倒れたりしない程度には、最低限の休息が保たれていた。
 本来ならば、こんなにも連日の勤務は、メタルダイバーの健康上好ましくない。しかしそうしなければ、現状において電理研が抱え込んでいる業務は処理出来ない。結果的に彼らの勤務時間は、限界最高値を掠めている状況だった。
 そんなフジワラ兄弟も、この9月1日の昼下がりにおいて一時帰宅許可を勝ち取り、どうにかして電理研から抜け出していた。明日の朝にはまた電理研に顔を出さなくてはならないとは言え、ようやく自らの寝床で眠れる訳である。
 ほぼ1週間振りに本当の空の元に姿を見せたフジワラアユムには、昼下がりの太陽であっても充分に眩しく感じられていた。しょぼついた目許を、指で押さえるように拭う。
 バンダナで押さえた彼の髪は脂ぎっていたりぱさついていたりと、場所によって状況が違っていてぼさぼさになっている。メタルダイバーとは脳を酷使する職業ではあるが、終日託体ベッドに身体を預ける日々を続けて来ると、身体のあちこちが硬くなっている気分になる。
 彼の後ろには、数歩引いた状況で、弟のユージンが歩いてきていた。彼らはこの手前の水路で、電理研が用意してくれた水上タクシーから降りていた。その脚で地上の舗装された道路を歩いてゆく。緩やかな坂道を登り、その先にある自分達の所有する店舗に向かっている。
 陽光の元では流石に点灯はしていないがそれでも場違いなまでに派手なネオンサインが、店舗の名称「ドリームブラザーズ」を主張している。通常時において営業時間が夜に及ぶ事はないのだが、何故かこの店舗にはこのようなネオンサインが装備されていた。ごくたまに夜まで海に出ていた時に、海から見るこのネオンがとても目立っていいものだとアユムは思うのだが、弟はそれをなかなか理解しない。
 今の時間帯では昼下がりの太陽が、道路の舗装に柔らかな光を注いでいる。アユムはふと、自分達が利用しているハーバーに視線を向けた。
 その向こうにある海が陽光を弾いてちらついているが、桟橋には自分達が所有する小型船が停泊していた。港湾内部にまで辿り着いている小さな波を船体に受け、その身を若干揺らしている。
 船がここにある以上、どうやら今は、誰も海には出ていないらしかった。今日のダイビング客の予約状況はどうだっただろうかとアユムは思う。1週間も家を空けているために、彼に店の状況は全く判っていない。
 しかし、この疲れた脳では、店舗の業務メタルに接続してまで調べようとは思わなかった。元々自分の店とは言え、客からの予約状況は彼はいつも把握しようとはしていない。それは弟の領域だった。アユムにとって、客の管理と言う面倒事は弟に丸投げするのが常であったし、現在は自分達の他にも留守番が居るのだった。
「――ちぃーっす。波留さん…」
 アユムは片手を挙げ、店舗の自動ドアをくぐった。透明なガラス状の大きな壁面からは、内部の様子も少しは透過されて見て取れている。
 静かに自動ドアが開き、アユムが店内に足を踏み入れた。すると、店舗のカウンター席に着いていた3名の客らしき女性達が各々振り向く。やってきたアユムに、その全員が視線を向けた。何処となく訝しげな様子である。彼が店の人間であると知らないのだろう。
「お帰りなさい。アユムさん」
 彼女らが着くカウンターの向こうには、黒髪の男が立っていた。彼は髪を後ろでひとつに結んだ後に、更にバレッタで上に留めている。その纏まり具合から、解くと相当に長い髪の持ち主であるらしかった。
 彼はシャツとジーンズと言うラフな服装の上から、紺色のエプロンを身につけていた。その髪は生乾きのように若干重たげで、店内には潮の香りが漂っていた。
「――予約のお客様ですね。ダイビングはどうでしたか?」
 アユムの背後から、そんな別人の声が割り込んでくる。小柄な兄が振り向くと、彼の後からついてきていた弟ユージンがにこやかな笑顔を浮かべていた。大柄な容貌で、にこやかに笑ってカウンター席に着いている女性達に呼び掛ける。
 弟の発言から、兄は彼女らがダイビング客なのだと確信出来ていた。おそらく弟は店の業務メタルに接続してそれを確認して、発言したのだろう。
 そして女性客達もユージンの言動から、今この店にやって来たふたりの男がどうやら店員らしいと認識出来たらしい。だから訝しげな視線を変化させ、簡単な挨拶を交わした後に口々に感想を述べてゆく。
 今日は、波留がインストラクターとして客である彼女らを案内し、ダイビングを行った。そして先程、海から戻ってきていた。
 ダイビングの後には、陸上にある店舗に戻ってシャワーなどで身体を洗うのが定番となっている。そしてこのドリームブラザーズでは、新たな定番が築き上げられつつある。8月から新たな店員として波留が加入している訳だが、店舗に戻った後に更にお茶などを淹れて客に出すようになっていた。
 そもそも、全て終わって落ち着いた際に、客に飲物を出す事は別の店でもやっている事ではあるし、今までのドリームブラザーズでも行っていた。しかしそれらは普通、買い置きの市販品である。波留の場合は違っていて、自分で紅茶やコーヒー類を淹れて出すサービスとなっていた。そしてそれは好評を博している定番となりつつある。
 波留がこの店のカウンターに就き始めて1ヶ月が経過している。メタルダイバーとして電理研に詰める事が多く、店を空ける日々が続いている兄弟も、自分達の店におけるこの居候による新たなサービスは把握していた。何せ、プライベートにおいてはそれらのお茶は自分達にサービスされていて、その味の上質さには納得しているのだから。
 そのうちに、賑やかな様子で女性客達は挨拶をし、席を立ち始める。どうやら兄弟の帰宅に気を削がれたらしい。
 実際はそんな事情ではないのかもしれない。しかし自分達の帰宅の後に彼女らが帰り支度を始めたのだから、帰ってきた側としてはそうも穿ちたくもなった。少なくともアユムとしてはそうである。
 そう考えると、彼女らが波留には満面の笑顔で挨拶するのに対し、自分達兄弟には何だか笑顔がぞんざいであるように感じられてしまう。それはあまり好ましい考え方ではないと気付いてはいるが、アユムは半ば呆れを抱きつつそんな風に捉えていた。
 彼の気持ちを知ってか知らずか、爽やかな笑顔を浮かべて波留は女性客達を見送っていく。その彼に対して、女性陣は各々に色々な印象を与えるような笑顔をしていた。
 
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