機材のサポートがあったとは言え、波留には5000m級の超深海に生身で潜った経験がある。そして50年前には、200mの領域には当たり前にフリーダイビングで至っていた。
 そんな彼にとって、この人工島の数10m程度の海底など、正に散歩出来る場所だった。潜った勢いのままに容易く珊瑚礁に至る。確かに人工の海底とは思えない。人工的に育成されたものとは言え、珊瑚は珊瑚で生命体には変わりないからだろう。その合間を泳ぐ魚が更にその印象を強める。
 10m単位とは言え、それを進めてゆくに従って、スーツ越しに水圧が強まっていく。常夏で温暖な海域だが、徐々に指先が冷たくなってきた。耳元に感じる音は静かで淡々としているが、無音ではなかった。
 彼は今までメタルの海でも似たような感覚を体験している。しかし、今こうしてリアルの海をその肌に感じていると、やはり何処となく違うような気がした。それは僅かな差異であり、彼以外のダイバーには感じ取る事が出来ないものかもしれない。そもそも彼の勘違いかもしれなかった。
 波留はゆったりと身体を動かし、海をすり抜けてゆく。最小限の動きで海底付近を泳いでいた。勢い余って珊瑚に触れては傷付ける恐れがある。そのためにぎりぎりの辺りを狙って進む。
 不意に、彼らの視界が開けた。
 彼らの眼前に続く「海底」が、急に落ち込んで行っていた。まるで穿たれたようではあるがなだらかに、海底が更に下へと続いている。その表面を珊瑚は相変わらず覆い尽くしていた。
 波留は泳ぎを止めた。波が感じられない深さに至り、彼の動きのみで自分を制御する事が出来ている。
 その隣に、アユムも来ていた。波留は彼に対して、目の前に広がる海底を指差してみる。しかしアユムも首を傾げてみせるだけだった。どうやらこのダイバーショップの人間にも判らない事態らしい。
 アユムは波留とは違ってメタルに繋がる事が出来る。人工島周辺である以上、海中にも通信分子は散布されていた。ダイバー業務に従事する人々のための措置である。濃度は地上ほどではないが、メタルを利用するには支障はなかった。だからアユムも今、メタルで検索したり船上の弟と電通を行って情報交換をしているのだろう。波留はそう認識する。
 電通出来ない波留は、自分の頭の中で考えを整理する。――先の異変で海底の地形が変わったのだろうか。しかしそれならば、珊瑚がこのように広がっているのはおかしい事態だ。あれはたかだか数日前の出来事なのだから。珊瑚がここまで育つ訳がない。
 しかし、そもそもあの異変そのものが「おかしい事態」なのだから、常識を当て嵌めるべきではないのかもしれない。そう考えると、出るべき答えも出せなかった。
 波留はアユムを見た。親指を立ててみせ、大きく頷く。そして水の塊を蹴り付ける。大きいモーションを取り、彼はその「海底」の先を目指した。
 答えを出すには情報が不足している。いくら考えていても仕方のない事である。ならばいっそ潜って答えを見付けて来ればいい――不思議な出来事を目の前にした際の、彼の信条がそれだった。それを今、ここで行使する。
 驚いた表情を浮かべたアユムは、波留を止める隙がなかった。彼はそのまま波留を見送る。波留が起こした波が彼の身体を軽く揺さぶっていた。
 
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