爽やかな朝の空気の中、小型船は静かに波止場から滑り出してゆく。 僅かに不安定に揺れる船底を感じつつ、波留はデッキに立っていた。せり出した手すりに腕をつき、身体を海に向けている。 現在の波留の身を包むのは、ドリームブラザーズから貸与されたウェットスーツである。青年としては珍しくもない背格好である彼に合うスーツを店舗のストックから探し出す事は、大した苦労もなく可能だった。ダイビングには少々長い髪は、いつものように結んだ後に兄のようにバンダナで纏めて上げている。 彼は揺れる海面を数m下に見ていた。既にメタルの海は自分のもののように泳ぎ潜っていたが、このようなリアルの海を間近に感じるのはかなり久し振りだった。客観的には50年前であり、彼の主観で捉えても8ヶ月振りとなる。少年時代に唐津に渡って以来海と共に生きてきた彼にとって、それは自分を形作る要素の枯渇を意味していた。 背後では人工島が徐々に小さくなっている。そのうちに船は港湾の潮から逃れ、外洋に至っていた。その辺りで船のエンジンが停止した。惰性で進みつつも、ゆっくりとその動きが緩慢になってゆく。 「――この辺の海は綺麗っすよー」 波留の隣に来たアユムがそう言って笑った。彼もウェットスーツに身を包んでいる。彼の弟は操舵やサポート担当であり、現在は船の舵を操っていた。流石にシュレディンガーは留守番となっている。 「人工島の周辺の海域では、人工珊瑚が敷設されているんでしたっけ?」 「そうっす。でも、人工と言っても、もう20年ものっすからねえ。天然ものと遜色ないと思いますよ」 波留と並ぶアユムが笑顔を浮かべてそう説明した。人工島は外洋にぽっかりと浮かぶ人の手で建設された島である。本来ならば人工島の海底とは、それこそ先日波留が潜った5000m級の超深海だった。 しかしそれでは人工島での日常生活において不具合を生じるため、島を建設する際にその周辺海域には人工的に「海底」を作り上げていた。数10mのなだらかな海底を構築し、そこに人工珊瑚を栽培したのである。 そしてそれらは人工島自体と同様に、構築20年を経て自然な印象のものへと発展していた。電理研や関連企業による定期的な手入れが人工珊瑚を無事に育成し、その周りに海洋生物達を呼び込んだのだ。今では人工の海底と言われなければ、その眺めだけでは誰も気付かない事だろう。 船が完全に停止した頃には、波留はアユムがスクーバの装備を背負うのを手伝っていた。しかし自分自身はそれを身に付ける事はない。彼は自分の身体そのままで潜るつもりだったからだ。スクーバもやらない訳ではないが、趣味として潜る際にはフリーの方が好みだった。その方が海を全て感じる事が出来るような気がするからだった。 ふたり共々準備が出来た時点で、ユージンがやってくる。この弟は居残りである。ふたりに――特に兄の方には細々と注意を述べ、彼らを見送った。 巨漢の弟の目の前で兄達が相次いで海にその身を落とす。白い飛沫が船のデッキにまで巻き上がるが、海はすぐにそれを受け入れ穏やかになる。 飛び込んだ後、すぐに波留は海面に顔を出した。顔に嵌めたゴーグルを右手の甲で拭う。透明な視界に海水の跡が引かれ、その向こうに輝く太陽が感じられた。 隣に顔を出してくるアユムが、左手を指差す。彼は既にボンベの吸引機を銜え込んでいたために会話は出来ない。そのためにボディランゲージで意思の疎通を行うしかない。もっとも海中ではそもそも喋る事が出来ないので、ボディランゲージは有り触れた事となる。 ともかく波留は指された通りに自らの左手を見やる。その手首には、ダイバーウォッチが嵌められていた。しかしそれは普段から彼が身につけていたものではなく、これもまたドリームブラザーズから貸与されたものだった。 ――普段の自分のものとは違うだろうけど、使い方は判りますか?アユムはそう言いたいのだろうと波留は認識した。そしてそれに対し、強く頷く。50年前のダイバーウォッチは、事務所を引き払う際に処分してしまっていた。 そして波留は口を開いた。アユムと違って彼はフリーダイビングを選んだために、口は自由である。海面に出ている以上、喋る事が出来た。 「――適当に潜ります」 耳元で海が波打っている状況なので、出来る限り大きな声ではっきりと喋る。それに対しアユムはゴーグル越しに視線を合わせ、大きく頷いてきた。 それに対し波留も頷いて返礼する。そして彼は海を蹴り、大きく伸びを打つ。勢いをつけて海面から顔を突き出し、口を開けて思い切り息を吸い込んだ。 そしてそのまま、沈む。勢いのついたままに顔が海水に落ち込み、周辺に白い泡が巻き上がる。耳元には水の音が響き渡った。煌く太陽の光を海の中でも感じつつ、波留はその先を見据えた。 |