焼いた食パンに簡単な目玉焼き。カップにはコンソメベースの野菜スープが入り、更に紅茶を淹れている。簡素でありがちな朝食の光景ではあるが、ドリームブラザーズにおいては珍しい代物だった。その眺めだけでも彼らを楽しませる。
 そして目の前に出されたものに口をつけてみる兄弟だったが、それらは味においても彼らを満足させていた。自分達が買っていた食材でこれだけのものが作れるのだと驚く。
「――…波留さん、料理上手なんですね」
「慣れているだけですよ」
 ユージンの感嘆の声に、何気ない風に波留は笑う。彼らが着いているテーブルの足元では、灰色猫が自分の食事にありついていた。こちらは出来合いの猫缶である。
 波留はあのまま、ドリームブラザーズに一泊していた。彼に当面の行く当てがない事を知ったアユムが、そうするように薦めたからだった。ホワイトソースベースのシーフードの宅配ピザを肴に、色々と話をしているうちに終電を乗り逃がすかなり遅い時間になってしまったのも理由だった。そうなると波留としても、とりあえず一泊だけ甘える事とした。
 彼はドリームブラザーズ店舗のソファーで寝る事となった。そうすると、猫のシュレディンガーが横たわる彼に擦り寄り、乗って来る。
 この灰色猫は元々は波留の事務所に居た訳で、波留と共に過ごした期間も長かったのだが、それにしても良く懐いていた。事務所を引き払った際にフジワラ兄弟に世話を任せたのだが、その際には居なくなった波留の事など思い出しもしないかのように、大人しくしていた。それが今ではこの状況である。
「――今日はお暇なんですか?」
「あーようやく休みなんすよ」
 波留の問いに、パンを齧りつつアユムが答えた。
「ようやく人工島外部のダイバー達の協力も取り付けたっぽくて。ずっと働き詰めだった俺らは終日休暇です」
 とは言え、メタル初期化に向けての事が動き始めたのが7月29日の夕方からである。それから電理研などが収束に向けて動き始めた事になる。
 ダイバーの不足などの対応を開始したのがメタル再起動の30日夕方からとして、そしてその成果が出たのが今日の8月2日なのだから、電理研などの動きはむしろ迅速と言って良いだろう。しかし当事者にとってはやはり「ようやく」との表現になっても責められるものではない。意識を危機に曝してまで仕事をするのが彼らメタルダイバーなのだから。
「メタルが初期化されたから、再設定などが大変そうですね」
「つーか、初期化されたってのに、何故かジャンクデータが漂ってたりしてですね。その回収や分析とかがまためんどいのなんのって」
 溜息交じりにアユムは愚痴った。初期化された以上、メタルの海は単なる水の空間になっているべきだった。珊瑚礁の形態を取る思考複合体も全て消失し、細かなバブルのみが漂っている状態になっているはずだった。ところが、何故かそうは行っていないらしい。
 ジャンクデータは様々な情報が崩壊したり断片化したもので、それだけでは何の情報か判らない代物である。そう言うものが散らばっている状況下でのメタルの再設定は複雑を極める事だろう。確かにダイバーもプログラマも大変な目に遭っている事は想像に難くない。
「そうですか…」
 波留は軽く息をついた。紅茶のカップの蔓に指を絡ませる。持ち上げ、縁を口につけた。軽く傾けて液体を含む。そんな彼をユージンが見やる。
「再電脳化してメタルダイバーやらないんですか?」
「その予定はありません」
 その話は昨晩のうちに終了していた。波留にとってはそうだった。だから柔らかな口調ながら、さっくりと切り捨てる。
「また電理研の委託ダイバーになれば、住居の世話もしてくれると思いますよ」
 気遣うように続くユージンの台詞に、波留は微笑むだけだった。現状において金銭の心配がない事は、ある種の厭味にもなるのでこの兄弟には告げていなかったのだ。だからこの手の心配を掛けているのだろうと波留は思う。
 彼が答えないために、ユージンもそれ以上の言葉を継がない。僅かな時間、静かな空気が食卓を支配する。その時、アユムの台詞がそれを打ち破った。
「――とりあえず、潜りに行きますか?」
「え?」
 唐突なアユムの言葉に、波留は顔を上げた。怪訝そうな表情を浮かべる。その視線を受け止めつつ、アユムは手元でスープのカップを弄んでいた。波留の方を見ないまま、言う。
「波留さん、つい最近まで爺さんだった訳だし、まだこの辺の海にはまともに潜ってないでしょ?これからどうなるか判んねえんだし、暇なうちに潜っといた方がいいっすよ」
 波留はカップを下ろした。ソーサーに軽くぶつかり、小さな音がする。
 アユムに言われた通りだった。老人であった頃の大半にて、彼は歩行が不可能で車椅子を利用していた。そんな状況ではダイビングなど出来る訳がない。メタルの海こそが、彼の海だった。
 そして歩けるようになった時にようやくリアルの海に潜った訳だが、それは5000m級の超深海だった。極端に過ぎる。50年前に潜ったようなレベルの海には、未だ潜ってはいない。
 そこに思い至ると、波留は急に体温が高くなってきたような気がしてきた。左手の指をゆっくりと曲げ、掌の中に纏める。指先にまで血が通い、熱い気分になる。
 彼の視線の向こうには、窓越しに海が見える。穏やかに波が寄せては返し、そのさざなみに太陽の光が照り返している。海と空との境界線は光の煌きで曖昧で、高い空には白い雲が浮かんでいた。
 
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