「ドリームブラザーズ」とは、店舗の外見からの印象とは裏腹に、海洋公園にて営業しているダイビングショップである。ダイバーであるフジワラ兄弟が経営しているショップだった。 この店は一般人でも知る人は知っている程度の知名度を持ってはいるが、波留はそれで馴染みがある訳ではない。この兄弟はリアルの海のダイバーであるばかりか、メタルダイバーもやっている。そして彼らも波留同様に電理研の外部委託メタルダイバーだった。ここの兄が自称する所の「電理研ダイバーTOP3」と言う括りである。 更に、リアルにおいても波留は彼らとは馴染みがあった。何故なら、波留の事務所はこのドリームブラザーズの真下に位置したからである。常時交流があった訳ではないが、時折外で挨拶を交わしたりする仲を保っていた。そしてその縁に甘え、事務所を引き払った際にある事を頼んでもいた。 波留は何気なく店舗に向かう。電理研が多忙を極めているならば、メタルダイバーである彼らも仕事を請けているだろうと思った。だから不在である可能性が高かった。しかし、波留の足は店舗の入口へと進んでいた。懐かしさもあったからかもしれない。 彼がある程度近付くと、不意にガラス戸の自動ドアがすっと開いた。と同時に、そこから突然何かが飛び出してくる。それは波留の眼前で大きく跳ね、飛び掛かってきた。 波留は腹の辺りにその一撃を喰らう。彼は思わずよろけ、手提げ袋が揺れた。しかし何とかスニーカーが路面を捉え、踏ん張る。堪え切った彼は、自らに激突した後に何事もなかったかのように路面に着地した存在に視線を落とした。 波留の足元には、灰色系統の毛並みを持つぶち猫が座っていた。尻尾をぴんと立て、耳をぴくぴくさせて波留を見上げている。何処となく嬉しそうな表情に思える目許のまま、軽く一声鳴いた。 「彼」の姿を認め、波留は微笑む。視線を合わせるべく、屈み込んだ。手提げ袋を左腕に掛けたまま、猫に対して手を差し伸べる。するとその猫は、波留が作り出した腕の中の空間に飛び込んできた。 波留は思わずそれを抱き留める。猫の暖かな体温が黒いシャツに覆われた両腕や胸に伝わってきた。 「――すいませーん…」 そうこうしていると、ガラス戸の向こうから姿を見せる別の存在があった。今回はきちんと人間の言葉を喋り、波留に対して謝罪めいた挨拶を送っている。どうやら店舗から飼い猫がいきなり飛び出してきて、通行人にじゃれ付いたと思ったらしい。 そこに姿を現したのは、がっちりとした体格の大きな男だった。背の高さは波留より少し高い程度でそうは変わらないが、骨格が違いその上から纏っている筋肉の量も更に違っていた。 そんな図体の男が、猫が纏わりついている波留に対して恐縮めいた笑顔を見せている。彼はこのドリームブラザーズのダイバーにして経理担当の弟であり、ユージンと言う名だった。 「こんにちわ」 波留は猫を腕の中に抱いたまま、出てきた男に対して微笑みかけていた。右手で猫の頭をそっと撫でると、ぶち猫は気持ち良さそうに目を細めた。ユージンはその様子に笑いを誘われる。 「もしかして、ダイビングですか?でも今日はそろそろ日が暮れますので、後日の予約になりますが」 彼は波留にそう話しかけてきた。どうやら一応はダイビングショップとしての勧誘を行っておくつもりになったらしい。それに対して波留は苦笑気味に笑う。 「今日は電理研に呼ばれていなかったのですか?」 「え?」 「メタルダイバーの人手は、相変わらず足りていないようでしたが」 「…僕達の事を御存知なんですか?」 腕の中で猫を弄びながら言う黒髪の男を、同業者かとユージンは思った。メタルダイバーとしての自分達兄弟の立場を明確に把握している事を奇妙に感じたからだ。 彼は、この若く見える男の正体を全く見破っていなかった。それを感じ取り、波留は茶化すように笑って言った。 「ええ、とても御存知ですよ。――シュレディンガーを預かって頂いて、ありがとうございます」 波留はそう付け加えながら、手元の猫の顎を指で撫でる。すると仰々しい名前を呼ばれた猫がくすぐったそうに身じろぎし、それでも目を細めて鳴き声を上げた。 その様子に、ユージンはいよいよ本格的に首を傾げた。どうも、普通の人間では知り得ない個人的な情報を知り過ぎているような気がする。そしてそれらを知っているのは、かなり近しい人物に限られるのだ。 同業者たるメタルダイバーならば、クラックを含めた様々な手段で情報収集している可能性も考えられた。そうなると、この一見穏やかな青年は、とてつもなく危険なダイバーであると――そこまで考えが至った時だった。 波留はシュレディンガーを腕の中に抱き直す。少しだけ視点が高いユージンの顔を真っ直ぐに見やった。そして困ったように笑い、告げる。 「信じて頂けるか判りませんが、僕は波留真理です」 「――波留さん!?」 波留は何人目か判らないが、このユージンにも一様に同じような反応をまたしても返されていた。だから波留は困った笑いを深めてゆく。また1から説明しなければならないのか――そう思う。 そこに、彼らの傍に、別の声が届いた。ユージンの背後のガラス扉が再び開き、そこから小柄な男が姿を見せたのだ。 「――…おい、お客かあ?」 そこにはユージンや波留よりも頭ひとつ小さい青年が立っていた。髪をバンダナで上げ、エプロンを独特の纏め方でベルトのようにして腰に留めている。 その彼が髪をがしがしと掻き回しながら、若干がに股で敷居を跨いで出てきていた。その彼がまずユージンを、次いで波留を無遠慮そうな視線でじろじろ見る。 その視線を受け止めつつ、波留は笑顔を浮かべた。軽く会釈しつつ挨拶する。 「お久し振りです。フジワラアユムさん」 「…何であんた、俺の名前知ってんだよ」 小柄な男は憮然と応対していた。会った覚えもない男に自らのフルネームをきちんと言い当てられたのだ。個人やプライバシーを尊重するこの人工島においては、その行為に彼は多少の警戒心を刺激されていた。 そんな彼に、弟が向き直った。片手で波留を指し示しつつ、兄に対して言う。 「兄さん。この人、波留さんだって」 「………はあ?何寝言言ってんだお前」 その台詞に、アユムが食って掛かる対象は弟に変わる。片眉を上げて奇妙そうな表情を浮かべていた。 兄に絡まれている弟も困り顔だった。彼も波留の存在を認めた上で兄に紹介している訳ではないからだ。自分の台詞が「寝言」かもしれない認識は、ユージンの中にもあった。 そんな兄弟の様子を、波留は和やかな笑顔を浮かべて眺めている。――ふたりに纏めて説明出来るから、手間は省けそうだ。シュレディンガーと言う名の猫を抱きつつ、彼はそう思っていた。 猫が兄弟のじゃれ合いに首を向け、波留の腕の中で軽く伸びを打ちつつ、長閑な声で鳴いた。彼らの頭上にある空では、太陽が大海原に向けて傾いている。 |