現在の時間帯では客の数は多くはないため、長居をしても迷惑にはならないだろう。波留はカフェの光景を眺めやり、そう結論付けていた。 このカフェのミートソースのパスタは、可もなく不可もなくと言う味わいだった。しかし相変わらず空腹が最良のスパイスとなり、彼は不満なく完食していた。その後、食後のコーヒーを頼み、それを少しずつ口につけつつも彼は携帯端末をいじっている。 原初の夜の果てにメタルは初期化された。それでも最低限の個人データは電理研が停電以前に出来る限りローカルに保存し、メタル復帰と同時にメタルに再度導入した。だから島民としての登録情報や口座データなどは無事だったのである。 しかし、人工島の住民は5万人程度とは言え、充分に膨大である。そのために、電理研は本当に最低限のデータのみしか保存出来ていない。だから波留のメタルもほぼ初期化状態となっている。具体的に言うならば、今まで彼が登録していた他者のアドレスが綺麗さっぱり消え去っていた。 ペーパーインターフェイスを得た時点で、波留はとりあえず電理研のソウタと衛、そしてホロンにメールを送信している。彼らのアドレスは別れ際に紙情報として受け取っていた。それを元にして彼らに自らのアドレスを告げるメールを送った。 とは言え、波留にとっては今までは深い関係があっても、これからはどうか判らない人々である。だから彼は特に返信を必要とはしていない。こちらの状況を知らせたかっただけだ。 そう言う訳で、気を遣わせたくはないために、特別に改めて文面を書く事はない。全員に対して同型の文章で送信していた。それは文面や送信形式などより、相手側にも把握出来るはずだと彼は思っていた。 そして今、自らのメタルに接続してみると、ホロンからのメールが着信していた。彼女は公的アンドロイドとして多忙な状況であるはずだが、やはりマスターからのメールの処理は優先させたらしい。そのメールを端末上で展開させると、アドレスの礼の他に波留が持ち帰ったダイブスーツの調査の件についても触れられていた。 波留はそれを眺めつつ、何気なく説明書を捲ってゆく。カフェでコーヒーを啜りつつこうやっていじっていると、まるで前時代にて携帯電話を購入したような状況だと思う。彼にとってそれはまだ手の届く位置にある記憶だった。 ――そう言えば、あの当時の仕事仲間とは、割と早い時期に番号を交換したものだったな。波留は不意に50年前を思い起こす。 彼はその当時はまだ日本の独立行政法人だった電理研に所属していた。そこでの仲間達とは親友以外であってもかなり仲が良く、プライベートでも付き合いがあったものだった。そうでなくとも仕事上、海上に浮かぶ観測船に居る事が多い。フットワーク軽く仕事をする状況だったため、職員間であっても携帯電話で連絡を取り合う事が多かった。 彼の年代において、携帯電話が一般に普及し始めたのは大学を卒業する頃だった。そしてその頃には彼は携帯電話を入手していた。奨学生だけあって生活に余裕があった訳ではないが、趣味と研究の実益を兼ねてダイビングに勤しんでいた彼にはそれは非常に便利なツールであるように思えたのだ。 そしてその判断は正しかった。院に進む頃には日本を離れたが、そこでも彼は携帯電話を所持し続けていた。徐々に機能が多彩になっていくそれを楽しみながら活用していた。 そんな事を思いつつ、波留は現在の携帯端末を持ち上げる。全面が液晶になっていて、機能別にそこに表示される内容が変化する。タッチボタン方式でキーボードやテンキーが出現したりするものだった。彼が生きた前時代には既に、そう言う携帯電話がリリースされていたと記憶している。 そして表示した登録アドレスを眺める。初期化直後と言う事もあり、50年前とは違って寂しい状況だった。そもそもこの時代に目覚めてからも、そこまで多数のアドレスを収集していた訳でもない。しかし、今ここに掲載されて居ない、重要な人間達のものが、その頃にはあったはずだった。 自らの住民コードや口座番号などは生脳の記憶に遺していた波留だったが、流石に他人のアドレスの記録は電脳に頼っていた。だから、今は覚えていない。そればかりか、4ヶ月間積み重ねてきたやり取りのログも消失していた。 アイランドで別れた少女とは、またいずれ会えるはずだった。確証などないが、彼はそう直感していた。事務所を引き払い電理研を離れた今、彼女との接点は消え去りつつある。しかしそれでも、何処かで会えると思っていた。出会った時点でまたアドレスを教え合えばいい。リアルでもいくらでも話せばいい。 しかし、もう二度と会えないだろう親友とのログも、彼の手元からは零れ落ちていた。それはもう取り返せないものだった。 彼の口許から溜息が漏れた。瞼を伏せ、手元の説明書を閉じる。紙が擦れる音を聴覚が捉えた。街中を微かな風が吹き抜けて行った。 |