沈黙の末、ソウタは頷いた。波留を翻意させる事は不可能だと悟ったのだろう。しかしその表情は硬く、自分では納得出来ていない様子だった。
「…判りました。本当に残念ですが、無理にお引き留めはしません」
 眉間に皺を寄せたまま、ソウタはそう言った。
 ともあれ、ソウタは自らにそこまでの権限は無い事を理解していた。統括部長としての久島ならば半ば強制的に依頼を行う事も出来たかもしれないが、今のソウタには波留に対して強権的な態度を取るだけの裏付けがなかった。
 それは彼の性格上の問題でもあったし、仮にも民主主義を用い「個人」の概念を大切とする人工島の住民同士なのだ。下手に仕事を強要しては人権問題にも発展する恐れが生じる。
 波留自身は訴えないかもしれないが、電理研としてのイメージもある。現状でも電理研の存在は、人工島住民にとって不可侵かつある種の畏怖めいたイメージで捉えられているし、それが電理研が抱える各種業務の助けとなっている事も否定出来ないが、過度の畏怖はそれらのメリットを上回るデメリットとなるだろう。
「ありがとうございます」
 波留は歳若い統括部長代理に対し、深く一礼した。その拍子に前髪が目許に掛かり、瞼を伏せる。
 電理研にとっても人工島にとっても今が大変な時期である事は、波留にも良く判っている。だと言うのにソウタからの要請を固辞するのだ。自分だけが部外者となろうとしている。
 それに対して色々と思う所はあるだろうが、対外的には認めてくれようとしているソウタに、波留は感謝した。
 ソウタは再びテーブルに右手を伸ばす。カップの蔓に指を絡ませ、持ち上げた。口許に持っていくまでではない位置まで取り上げ、その紅い水面に視線を落とす。紅茶のよい香りが彼の方へと漂ってきた。
 中途半端な位置にカップを保持したまま、ソウタは顔を上げた。波留を見据えて語り始める。多少心配さを含ませた口調だった。
「しかし、検査はきちんと受けて下さい。何せ5000m級の超深海ダイブと、メタル深層へのメタルダイブを行ったお身体です。双方のメディカルチェックが必要ですし、そう言う状況ならば脳の詳細も調べなければなりません。単に未電脳化状態になっているだけならいいのですが、脳に何らかの障害が発生していては大変です」
 ソウタの意見に、波留は首肯した。ダイブ後のメディカルチェックはダイバーの義務であり、言われるまでもない事だった。しかしそれでも、このように自分の意見が通らなかったのに波留を心配してくれているソウタに、波留は好感を持つ。
「判っています。検査の手筈を整えて頂けますか?」
「メディカルチェック自体については、既に準備が完了しています。しかし未電脳化状態と言う事で色々と調べるべき事が増えたでしょうから、検査は今日中には終わらないとは思います。全てクリアになった時点で、ペーパーインターフェイスを支給出来るようにも取り計らいましょう」
「お願いします」
 それらもダイブを依頼した電理研の仕事ではあるが、本当に何から何まで準備してくれているらしい。大変な状況だと言うのに抜かりがないソウタの指示に、波留は安心していた。多忙であっても平常運営が出来ているならば、電理研もソウタも大丈夫であるように彼には思えた。
 ソウタは波留を見て頷いた。カップを持ち上げ、軽く口をつける。そしてそれをすぐにテーブルに下ろした。カップの蔓から指を解く。
「では、アンドロイドに案内させましょう。呼びますので暫くお待ち下さい」
 言いながらソウタは腕を組んだ。軽く瞼を伏せ、沈黙する。
 その様子と今の台詞から、ソウタが電通でアンドロイドに指示を出しているのだと波留は判っていた。そしてこれで自分達の会談も終わりなのだと感じる。――部外者である事を選んだ以上、彼自身がこのオフィスを訪れるのも、これが最後なのだと。
「ええ…――」
 波留は頷いた。そして顔を上げ、視線を巡らせる。今まで馴染みがあったこの部屋を、もう一度しっかりと見やっていた。
 外の海を映し出すガラス状の壁面。別方向にはレンガのような物体の不可視の壁。床はフローリングで部屋の隅にある観葉植物同様に、出来る限りの自然を思わせる。応接セットの向こうにあるデスクは黒色のモノリスで、それ自体がメタルへの接続端末となり――。
 波留がそこまで視線と思考を巡らせた頃に、部屋の向こう側で自動ドアが開く音がして、そこから公的アンドロイドが姿を現した。彼女はホロンではないが同型であり、制服から秘書アンドロイドと認識出来た。
 彼女はそのまま歩いて来て、応接セットの前で足を止め、一礼する。どうやらここから去る時が来たらしいと波留は感じる。革張りのソファーからゆっくりと腰を上げる。衛、そしてソウタに対し、順番に目礼した。
 返礼しつつ立ち上がろうとするふたりに、波留は右手を広げて押し留めていた。それは衛はともかくとして、右足が利かないソウタに無理をさせないためでもあった。
「今まで、お世話になりました」
 波留はそう言い、軽く屈み込む。席に着いたままのふたりに向かい、それぞれに握手を求めた。求められた方も順番に手を差し伸べ、波留の手を取る。
 衛とソウタのどちらともなく、掌を触れ合わせた波留に対して接触電通を試みようとする。しかしその父と息子は双方とも、波留の掌から何も読み取る事は出来なかった。彼らの脳内では「NO DATE」と表示されたダイアログが空しく浮かび上がるだけだった。
 
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