波留がそれを自覚したのは、昨晩アイランドにてメタルの復旧が始まってからだった。 アイランドにはメタルに接続出来ないように電脳障壁が打ち立てられている。しかし大気中に撒き散らされている通信分子を介さない接触電通は、人工島本土同様に行えるようになっていた。そのために普通に、介助施設職員と掌を合わせて明細のやり取りを行おうとしたのだ。 しかし、それが出来なかったのだ。 いくら波留が待っても、彼の電脳には明細データが届かなかった。そのうちに職員が奇妙な表情になり、事態に気付く。どうやってもデータの送信が出来ないと、波留に告げたのだ。 そして通信端末を用いる時も、端末に掌をかざしても反応が無かった。そのためにあの病棟に少なからず滞在していた電脳アレルギー患者同様に、通信端末を前世紀の単なるテレビ電話のように使用するしかなかった。 その頃には、何らかの不具合が自らの電脳に現れているのだと波留は認識せざるを得なかった。何せ「海の深層」と呼ばれる場所に接続し、突然に切断したのである。あまりに膨大なデータを前に電脳が処理不能に陥りナノマシンが一部破損したか、或いは身体が50年前の状態に若返った以上電脳化もその水準まで戻されてしまったのか…彼は自らの身体の変化について、そう言う状況を思い描いていた。 そして今朝、メタルに常時接続出来るはずの人工島に戻っても、全くメタルに繋がらなかった。接続を試行しても彼の電脳は沈黙し、反応を見せない。 波留が人工島に戻った事は、電理研が定期船のチケットを用意している以上、電理研側には把握されているはずだった。だから人工島に到着した頃を見計らって電理研側が電通やメールを送っていてもおかしくはないと考えた。しかし、それらも一切届いて来なかった。 波留はそう言った説明を、ソウタと衛に行う。そして電理研側のふたりから自分に対する電通などの働きかけの事実を訊き、結果的に彼の考えは裏付けられた。 「――ですから、電脳を使えなくなった以上、僕はもうメタルダイバーの仕事をこなせないのですよ」 あくまでもにこやかな表情を崩さず、波留は結論をふたりに述べていた。そして言外に彼の真の主張を匂わせる。 メタルダイバーの仕事が出来ない以上、電理研の幹部になど就任出来はしない。電脳化していない人間が、メタルの最前線を邁進する電理研の支配層になる事が許される訳も無いのだから――波留が言いたい事はそれであり、ふたりもそれを把握する。 ソウタは顎に手を当てて考え込んでいた。しかし口を開く。波留を見やった。 「波留さん。これからの検査結果に拠るでしょうが、再電脳化して頂く手もあります」 「…そうですね。電脳化自体はすぐに可能ですから」 今まで黙っていた彼の父親がそれを補足する。現行のメタルの技術水準では、人間の電脳化は大掛かりの手術を必要としない。脳と掌に、通信分子たるナノマシンを定着させる注射を行うだけで事足りる。注射2本で20分――と言うキャッチフレーズは大袈裟が過ぎるが、実際に何の問題が無ければ半日程度で施術は終わり、分子の定着が確認されたならすぐにメタルに接続する事が可能だった。 ともかく波留の場合、ソウタが言うようにまず彼の状態を確認する必要がある。電脳化した人間が唐突にその能力を失ったのだ。それはイレギュラーな事態であり、精密検査が必要だった。 しかし身体が平常だと確認されたなら、再電脳化も可能だろう。全く電脳化した事がなかった人間同様にナノマシンを投与出来るならば、それはとても簡単な話だった。 しかし、波留はゆっくりと首を横に振った。微笑を口許に湛えている。 「いい機会です。このまま電脳化せずに生きて行こうかと思っています」 「…もう、メタルダイバーは、なさらないと?」 確認するように、ソウタは静かに波留に尋ねていた。波留の言葉はソウタには意外なものだった。しかし、何処と無く、それを選ぶのではないかと言う気もしていた。相反する気持ちを抱きつつ、青年幹部は質問する。 「ええ」 すると今度はゆっくりと首を縦に振りつつ、波留は微笑んでいた。爽やかな笑みがそこにある。 「メタルダイバーとしての波留さんの才能は、素晴らしいと思うのですが」 「僕の役目は終わりましたよ。地球律がどう言うものかも理解出来ましたし」 波留の台詞は淀みない。彼にとってメタルダイブとはあくまでもリアルの海の代用品であり、親友と共に海を解き明かすために必要なものだった。それらの懸案が解決した今、無理にメタルダイブする必要は無い。波留自身はそう考えていた。 ソウタも波留がその考えに至った事は、理解は出来る。この大変な仕事から生還し、報告も済ませたのだ。やり遂げた心境になっている事は想像に難くない。 しかし彼はもう少し粘りを見せる。もっと端的な方向から攻めた。 「この人工島で、電脳化せずに生活するのは大変ですよ?」 しかし波留の微笑みは絶える事はなかった。むしろ、何かを思い出したのか、その笑みが深まる。 「あなた方の御家族も電脳化なさってないではないですか。この4ヶ月間、僕が見てきた限り、日常生活において彼女は平気そうでした。携帯端末がある訳ですしね」 波留がそう言った時、この部屋にいた3人は同一の少女を頭に思い浮かべていた。白基調のセーラー服を着ている、大きなリボンが頭に目立つ少女の姿が共通認識となる。 彼女は波留が言うように未電脳化者である。特に電脳アレルギーなどを抱えている訳ではなく、自らの意思で電脳化への道を選択していない少女だった。 人工島での生活にはメタルが浸透しており、それを使用しなければ日常生活を営む事すら難しい。しかし、未電脳化者にはペーパーインターフェイスと呼ばれる小型の携帯端末が支給されるのが常だった。 人工島では電脳化していない者にも固有のアドレスが割り振られ、その携帯端末に登録される。そしてその端末を用いる事でメールや電通もメタルでの調べ物も可能であるし、買い物などの決済も端末を接触電通させる事でやり取りが出来た。 端末さえあれば、電脳化していなくとも特に困る事はない。だからオーストラリアから人工島に越してきた彼女も、未だに電脳化していないのだ。 たまに端末を忘れてきて買い物が出来ないとか、そう言うレベルのトラブルは発生していたようだが、その少女は少し困っていた程度だった。そして波留にとっても、その程度は許容範囲である。50年前の生活を思えばいいのだから。 |