「………え?」 たっぷりの沈黙の後、波留は短い言葉を発していた。それだけしか言えなかった。それは、彼の予想の範疇から大きく外れた話だったのだ。 そんな波留に対し、ソウタは勢い込んだ。胸に手を当て、顔を前に突き出して語り始める。波留を見つめて自らの意見を述べようとした。 「お飾りに過ぎない俺でも、それ位の権限は持ち合わせています。それに波留さんは現在においても、電理研――いや、人工島でもトップクラスのメタルダイバーです。世界的に見てもそうでしょう。そんなあなたを幹部として推薦する事は、少しもおかしい話ではありません。おそらく他の幹部や評議会も、あなたをメタルダイバーを統括する幹部として、認めてくれます」 波留自身に自覚はなくとも、ソウタの評価は的を射ていた。様々な依頼を解決した結果、波留は電理研随一のメタルダイバーと言う評価を得ており、それは電理研内部のみならず現評議会書記長を始めとした評議員や人工島の株主が成す諮問委員会にも伝わっている。 更には「久島の弟子」とされていたソウタと同様に、波留もまたメタルダイバーとしては「久島の懐刀」のような扱いを受けていた。そんな立場なのだから、ソウタ同様に電理研幹部に推挙されても誰もが納得する事だろう。 何の申し送りもなく久島を突然に失った電理研は、久島の影響力を出来る限り残しておきたかったのだ。それが職員達の離脱を極力抑える手段となるはずだと、幹部達は認識していた。 「――波留さん。私からもお願いします」 隣から発言が来た。波留はソウタから視線を外し、横目で隣を見る。そこでは衛が波留に対して頭を下げていた。ソファーに座ったままではあるが、膝に両手を当てて曲げつつも、深々と一礼をしている。 「今の私には何の権限もありません。しかし、あなたが電理研に必要な人材である事は保証します」 その衛の態度に、流石に波留は恐縮した。両手を胸の前で振る。彼は現在では容貌も衛よりも年下のそれとなっていたが、老人の姿であった頃も波留にとっては衛とは「年上の人物」だった。そんな人間から頭を下げられるとなると、どうにも座りが悪いものがある。 ――…困ったな。 波留は率直にそう思った。首を傾げ眉を寄せ、視線を天井に向ける。指で頬を掻いた。彼は自らを高く評価される事には全く慣れていない。性分に合わないと言い換えてもいい。 それは50年以上前から変わらない態度である。あの頃も、研究によって親友の評価が上がる事は喜んでも、彼自身の事など気にも留めていなかったのだ。彼自身も素晴らしい研究者として電理研に迎えられており、後にダイバーとしての能力も公に認められるようになったとしても。 「…あの、申し訳ないのですが…僕はそんな柄ではありません」 苦笑いと共に波留はそんな事を言った。彼の下からは未だに紅茶カップから湯気が立ち昇っている。 「波留さん、そんな事を仰らないで下さい」 見るからに必死そうな顔をして、ソウタがそう言う。その表情を見ていると、波留はますます申し訳ない心境に陥った。 ――確かに彼の性には合わない状況ではある。しかし、彼の台詞は、必ずしも謙遜のみではなかったのだ。 「…えーとですね。それ以前の問題と言うか…――蒼井さん」 困った表情を浮かべたまま、波留は隣の中年研究者に話を向ける。 「僕はあなたと先程握手をしました。その時、何かおかしいとは思いませんでしたか?」 「…言われてみれば、確かに少し妙だとは思いましたが…」 衛は顎に手を当てた。考え込むような仕草を見せる。あのエントランスにて、確かに衛は波留と握手を交わしていた。その際に行われるはずである、互いの情報の交換が一切なされなかったのだ。 メタルを利用する人間は電脳化しているならば、掌がインターフェイスとなる。そのために電脳化している者同士が握手をしたなら、自己紹介のように自動的に情報の交換が行われるものだった。それはメタルに常時接続可能な人工島においては、生活の基礎である。 しかし、あの時確かに、波留の情報が読み取れなかった。その原因は思い至らない。電脳をオフラインにしていたのだろうか? 首を捻っている衛の態度に波留は頷く。それから一旦衛から視線を外し、ソウタへと戻す。 「ソウタ君。あなたは人工島入りした僕に対して、電通とかメールとかを行おうとはしてませんでしたか?でも通じないとか思ってませんでしたか?」 「…ええ。しかしそれは、波留さんがオフラインにしているから、通じないのだと思ってたんですが…」 波留からの問いに、ソウタも衛同様に考え込みつつもそんな事を答えていた。 人工島においてメタルは常時接続ではあるが、それ故に他地域よりも脳を酷使してしまいがちだった。そのため、たまには電脳をオフラインにしておく事も肝要である。電理研ではその行為を安息義務として、毎日の日課と職員に義務付けていた。 メタルダイバーである波留は、脳を休めるためにそれを日常的に行っていても妙な話ではないとソウタは思った――今まで電通が通じなかった事がないにせよ、それは偶然だったのだと。 「違うんですよ」 しかし波留は短く笑う。彼らの推測を明確な口調で否定した。そして、告白する。 「どうやら今の僕は、未電脳化状態になっているようなのです」 |