統括部長オフィスの室内には、ソファーとテーブルの応接セットが設置されている。 華美ではないが落ち着いた印象を与える革張りのソファーに、3人は腰を下ろしていた。ソウタの指示によりタイプ・ホロンの秘書アンドロイドがオフィスを訪れ、彼らに紅茶を振る舞う。来客時の礼儀としてのそれに、人間達はひとまず口をつけた。 応接セットでは、波留と衛が隣り合って座り、向かいの席にはソウタが独りで腰掛けている。その席次は一応は部長代理と言う飛び抜けた職に就いているソウタを尊重したものである。しかしそれ以上に、彼の傍らに置かれた松葉杖を考慮していた。 「――…ソウタ君。その後、足の具合はいかがですか?」 紅茶のカップを傾けつつ、波留は躊躇いがちに目の前の青年に対してそう質問していた。カップの中の赤い液体から湯気を顔に当てつつ、その向こうにあるソウタの顔を見やる。 訊かれた青年は、少し眉を寄せた。笑みを作り出そうとして失敗したらしい。唇が微妙に歪む。目許に皺が現れる。 「…まあ…慣れてきましたよ…」 微妙な笑みを浮かべたソウタは、呟くような小さな声でそう言った。視線を落とし、右足の膝の辺りを見やった。右手でその辺りを撫でる。 「…そうですか」 波留はそれだけ言った。俯き加減になり、紅茶の水面を眺めていた。彼の隣では衛が自らの息子に視線を送っている。その表情は辛そうなものとなっていた。 今回の気象分子を巡る一連の事件の中で、ソウタは右足を負傷していた。彼は元々生身のまま対義体格闘術を極めようとしていた人間であり、そのためにメタルダイバーの波留と対照的にリアルでの格闘を担っていた。その結末が、この状況だった。 彼が負傷してから10日が経過していた。2061年の最先端の技術を保持している人工島の医療レベルは、全世界においても最高水準である。通常の負傷ならば、もう治癒していてもおかしくない。しかし彼の右足は動こうとはしなかった。 負傷以来から超深海ダイブに至るまで、波留はソウタから負傷の詳細を訊いてはいない。彼自身も超深海ダイブに向けての調整で多忙であり電理研に全く顔を出していなかった。彼と顔を合わせる機会がなかった。 それに、訊くのが憚られたのもある。何せ、格闘術を極めようとしていた青年である。足を負傷した結果、その足に不具合が残ったなら、それも叶わなくなるのではないか。それは、波留自身が車椅子の老人となった時点で、海へのダイブを諦めた事にも似ているような気がしていた。ならば下手に触れて欲しくないだろうと、彼は思ったのだ。 波留は顔を上げた。紅茶入りのカップをソーサーに下ろし、室内に視線を巡らせる。 この部屋には彼が人工島入りした4月以来、良く通っていた。部屋の主からメタルダイブの依頼を任される時もあれば、単なる世間話をしたに過ぎない時もあった。あまりの目に余る態度に諭しに乗り込んだ事もある。 しかしそれは、今となっては遥か昔の出来事のように思えた。現在、彼の目の前に座るのはその親友ではなく黒髪の青年であり、その彼も以前とは違って電理研の要職に就いている。そして右足を負傷してしまった。 部屋の隅に置かれた観葉植物も、僅かではあるが成長している。ホロンも一連の事件の中、初期化されてしまった。そして何より、波留自身が若返っている。全てが4月以来、変化していた。 僅か4ヶ月足らずの期間だと言うのに、変わらないものなどなかったのだ。 「――それで、波留さん」 不意にソウタの声が届き、波留は思惟を中断した。ソウタが紅茶のカップをソーサーに戻し、一式ごとテーブルの上に置く。それらがテーブルに接触した際、僅かにかちゃりと音を立てた。 「リアルの海とメタルの海と、それぞれのダイブの件について、御報告頂けますか?」 波留はソウタを見やる。ソウタの表情に迷いは無い。真っ直ぐに波留を見ていた。 その時、彼の隣からも割り込みを掛けてきた。隣に座っていた衛もまた、波留に身体を向けて話し掛けてきたのだ。 「――私からもお願いします、波留さん。何せメタルが初期化されてしまったために、あなたのダイブログも全て消去されてしまった。全てはあなたの記憶の中にしか存在しないのです」 衛の言葉も切実な口調で発せられていた。何せデータが全て失われてしまったのである。 メタル初期化は絶対に必要な行為であったために仕方がない事態であるし、地球の危機自体は回避されていた。しかしそれでも、危険を顧みず行った観測実験のデータが獲得出来なかったのは、衛としても惜しい事態だった。 実際に潜った波留だけではなく、衛も妻のミズホと共に大深度区画に乗り込んだのだ。彼は海洋学は門外漢であるが、それでも研究者の端くれとしては観測データを確保したかった。 「…判りました。ダイバーとは、地上に戻ってダイブについて報告するまでが仕事ですからね」 波留はそう言って微笑んだ。その論旨は今回に限らず、彼は幾度と無く述べていた。それこそがダイバーとしての大原則であると、彼は50年前から理解している。 波留は軽い溜息をつき、手元にあるカップを再び取り上げる。縁に口をつけ、傾けて熱い液体を口に含ませた。喉を慣らす。長い話になりそうだった。 |