電理研――正式名称「電子産業理化学研究所」の広大な敷地の大部分は、人工島海底区画に存在している。地上部分にもランドマークになる規模の建造物を持ち得ているが、あくまでも電理研の本拠は海底にある。メタルの海のみならずリアルの海も重要視している企業を象徴するかのような設計だった。 波留達は水路経由でまず地上入口に辿り着いていた。交通の便はいい路線だったために、ターミナルからは30分程度で到着している。規定のタクシー料金は電理研の経費扱いでホロンが決算し、彼らは地上に降り立っていた。しかしすぐに認証を経て専用通路へのゲートをくぐり、エレベーターを使用して海底区画へと下りてゆく。 そしてエレベーターから一旦下り、海底の一般区画に至る。通路を歩くとそのうちに彼らの眼前にエントランスが広がっていた。そこでは白衣を纏った職員や公的アンドロイド、その他の人間達が自らの部署などに向かって歩みを進めている。 緩やかな階段状に傾斜がついた広間の中央には大型モニタ型端末が吊り下げられており、各々のモニタには様々な情報が掲示されている。その下には円形のブロックの囲いがなされており、中央には半球形のガラス状の透明な覆いが被せられた無骨な岩が安置されていた。その岩には「定礎」と日本語で大きく書かれており、その下部に「2041年4月竣工」と、やはり日本語で刻まれている。 波留は降り立った入口から遠目でそれらを見渡した。電理研委託ダイバーである彼にとって、それらは見慣れた光景だった。ここは、4月から今まで良く通った場所だった。 このエントランスにおいて、波留はホロンと別れた。彼女には波留から預けられた木箱の処置があり、波留はこれから統括部長オフィスに向かう事になっていたからである。多忙を極めている部長代理が波留のために時間を割いてくれているのだから、無為に待たせる訳にはいかなかった。 通常の人間は電理研一般区画の中でも最深部に位置する統括部長オフィスにはそうそう入室許可が出されるものではないが、波留にはそこを訪れなければならない理由がある。それに彼にとって、元々そのオフィスも馴染みの場所だった。そこに至る通路やオフィス自体の入室許可コードも、以前から固有のものが与えられていた。 だから波留単独でも移動は可能である。少なくとも、ホロンはそう結論付けていた。それに対して波留も微笑んで頷いていた。――君も忙しいだろうから、その荷物の処置を早くやった方がいい――そう告げて、彼女に一旦の別れを告げていた。 そんなやり取りを行い、いよいよホロンが波留に小箱を抱えたまま一礼して去ろうとしている時だった。 「――…波留…さん…ですよね?」 波留はそのような声を背後から掛けられていた。明らかに訝しげな口調であるが、しっかりと彼の名を呼んでいる。そう言う事が出来る人間は、現状においてかなり限られているはずだった。 そんな考えを脳内で展開しつつ、波留は身体ごと後ろを向いた。彼にとってその声は聴き覚えがあるものだった。そして彼を呼んだ人物を視界に認め、想定していた人物との一致を見て微笑む。 「蒼井さん。御心配おかけしました」 長い黒髪を翻らせ、波留は蒼井衛に対して笑いかけていた。穏やかな微笑を浮かべ、右手を衛に差し出す。その背後ではホロンが衛に対しても一礼を加え、静かに歩き去っていた。 そんな波留に対し、衛は僅かに戸惑った様子を見せた。差し出された右手と波留の若々しい笑顔とを見比べる。 この若者は昨晩アイランドから衛に電通を行っている。彼を「波留真理」であると認識していなければ、衛は定期船のチケット確保などの今までの助力は行えなかったはずだった。しかし改めてその若い姿を認めると、どうにも戸惑いを留める事が出来ないようだった。 「いえ…御無事で何よりです」 軽く口を開けたままだった衛だったが、やがて自らの右手に視線を落とした。気付いたようにその手を差し出し、波留の右手と絡ませる。しっかりと握手を交わしていた。 波留は衛をしっかりと見て、大きく頷いた。そしてその手を解き、衛の手から離した。そして朗らかな調子を保ったまま語りかける。 「蒼井さんもこれからソウタ君の所に向かうのですか?」 衛はその時、怪訝そうに自らの右手を見ていた。何か納得が行かないような表情をしている。しかし波留の声に我に返ったように顔を上げる。 「…ええ。私と部長代理が、波留さんの報告を伺う事になりました」 現在の電理研のトップを務める統括部長代理は、衛の実子である蒼井ソウタである。現在22歳とあまりに若い人選ではあるが、電理研幹部と評議会からの指名を経ての正式な任命となっていた。「久島部長の一番弟子」と言う立場を考慮しての指名であると言われている。 ともかく衛にとっては現行の部長代理とは彼の息子なのであるが、彼は電理研の業務においては息子を名で呼ばずにその役職名で呼称していた。それは公私混同を成さないためであり、また第三者に対してもそう言ったアピールをする意味合いもあった。 彼のそんな態度を、波留は深海にダイブする以前から知っていた。そしてそれは正しい判断であり、好感を持てる態度でもあると認識している。彼らは健全な親子関係にあり、勤める企業に対しても健全さを保っているのだと。 微笑む波留を前にして、衛は真面目な表情で話を続けていた。かけた眼鏡の位置が気になるらしく、右手で眉間を押さえる。 「元々少人数で秘密裏に計画を運んだ一件ですので、当初からのメンバーのみで話をするべきかと。その他の幹部には、我々が後程報告します」 「それが賢明でしょうね。事情を知らない人が同席したなら、まず僕が誰かを説明する事から始めないといけない」 波留としてはその台詞は、笑いをもたらそうとして発したものだった。しかし衛は引き攣ったような笑みを浮かべただけである。 付き合いのように浮かべたその表情に、波留は苦笑した。やはり衛は何処となく「若返り」の解釈に迷っている様子だった。 それが通常の人間なのだろうと波留は苦笑の中、思っていた。アイランドにおいても、歳若く柔軟な思考を持っているはずのサヤカやユキノでさえ、当初は戸惑っていたのだから。社会的に地位を築いている50代の衛では、ある程度常識に囚われてしまって当然だった。 |