そんな風に波留が歩みを進めていた時だった。
「――マスター」
 彼はそんな風に、不意に声を掛けられていた。呼ばれた彼は声のする方に顔を向け、足を止める。彼の耳に届いたのは落ち着いたものであり、彼にとって聴き慣れた女性の声だった。
 彼の視線はすぐに行き当たる。彼から若干の距離を取っているもののそこまでは遠く離れていない。数歩足を進めたら相対する事が出来る位置で、黒髪の女性が彼に対して深々と頭を下げていた。両手を膝の上に揃え、一礼してその手をスカートの上で滑らせている。
 彼女は電理研所属の秘書としての制服を纏っていた。そして観光客ではなく人工島の住民であるならば、彼女のその容貌はこの島の重要拠点に配備されている公的アンドロイドのそれであると気付く者も居るかも知れない。実は一般の公的アンドロイドは黒い長髪をふたつの団子状に纏めているのに対し、この彼女は頭頂部でひとつに纏め上げているのだが、そこまで差異を把握出来る人間は普段から公的アンドロイドを見慣れている者か余程のマニアックな知識の持ち主だろう。
 ともかく、公的アンドロイドの容貌であり電理研の制服を着ている女性が、電理研外においてひとりの私服の男に対して「マスター」と呼称している。それは傍から見ると、奇妙な光景だった。実際に、彼らの周りではこの状況に興味を持ったか、足を止める人も居た。
「――やあ、ホロン」
 そんな視線を受けつつも、波留はにこやかに笑いを浮かべていた。胸に抱える小箱の合間から顔を出し、アンドロイドに対して笑い掛ける。その笑顔を受けた、ホロンと呼ばれる彼女も波留に優しい笑顔を向けた。顔を上げた事で、掛けていた眼鏡の縁が僅かに光った。
 2061年現在において、アンドロイドは様々なタイプが製造され稼動しているが、人工島における公的アンドロイドとは「タイプ・ホロン」と呼称される女性型のみだった。彼女らは評議会や電理研などの人工島を代表する組織に配属され、秘書や警備、医療スタッフなど、それぞれの任務に合わせてプログラムをインストールされている。
 「公的」と但し書きされるだけあり、彼女らが単なる一個人に貸与される事など、通常ではあり得ない。しかし波留に対してだけは、例外である。彼女は確かに公的アンドロイドとして製造された存在であるが、現在では実際に波留個人をマスターとして設定し仕えている立場になっていた。それは、当時の波留が電理研にとっては重要人物であるから、そのような措置が取られていたのだった。――少なくとも、建前上においては。
「僕の事が良く判ったね」
 波留は笑顔を浮かべたまま歩みを進め、ホロンの元へと向かう。彼は自分を「波留真理」だと認識してくれる人がどれだけ居るものか、少々心配していたのだ。アイランドでもその件については一苦労していた。普通は「若返り」などと言う現象は起こり得ないのだから、そんな事態に思考が付いていける人間など、そうは居ないだろう。
 このホロンに際しても彼はそんな危惧を抱いていた。彼女の記憶に存在する波留とは、白髪の老人であるはずだったからである。それなのに今の自分は黒髪の若者である。髪型こそ同じで、長髪を後ろで纏めて流しているが、共通点はそれ位しか思いつかなかった。人間を特徴付けるひとつである声すら、加齢により変化するものであるし、口調も老人と若者のそれでは違ってくるものだった。彼は喋り方を意識して変化させている訳ではなかったが、その変化にもふと気付いていた。
 しかし、ホロンは彼を「波留真理」ときちんと認識出来ている様子だった。彼女は人間ではなくアンドロイドである。アイランドで出会い上手く理解してくれたサヤカやユキノと違い、感性や勘に訴え掛ける事が出来るような存在でもないはずだった。
 波留の言葉に、ホロンは唇を綻ばせた。人間を和ませるような笑みを作り出し、答える。
「蒼井衛様から、現在のマスターの顔画像データを頂いておりました」
「…ああ、そうか」
 波留は彼女の言葉に頷いた。どうやら昨晩電通で会話した蒼井衛は、何から何まで気を配ってくれたのだと彼は思い至っていた。
 あの時、衛の電脳には通話していた波留の顔画像のキャッシュが残されているはずだった。それを保存し、出迎え役のホロンにきちんと送信していたのだろう。その画像を元に、ホロンは自分を探したのだ。
 人間は「若返り」などと言う現象を見知った所で、どうしても常識が邪魔をして納得する前に引っ掛かりを感じるだろう。しかし彼女のようにアンドロイドならば、その現象を人間に伝えられたならば「そう言うものだ」として疑問を挟む事無くAIが解釈してしまうのだろう。現実の前に相反する仮定を持ち出しても意味はないのだから。
 
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