波留がジェットフォイルから下りたのは、乗客の中では最後の方になってからだった。 彼には特に急ぎの用事はない。だから周囲の乗客が下船の準備に入っても、窓から港を眺め続けていた。彼が座っていたのは窓際の席だったために、下りようとしなくとも誰にも迷惑を掛ける事はなかった。 彼の周辺の乗客が巻き起こしていたざわめきは、その人々の数が減ってゆくに従い収まってゆく。開かれた乗船口からは潮の香りが漂い、奥まった席に着いていた波留の元にもそれは届いてきた。その香りを彼は軽く吸い込み、嗅いだ。 そして波留が気が付いたように周辺を見回すと、満席だった客室は閑散としてきていた。それでも彼同様に急ぎではないのか未だに席から離れようとはしていなかったり、或いは単に寝過ごしたらしく慌てて手荷物を頭上の棚から取り下ろしていたりと、他の客も少しは残っていた。そのために波留のみが浮いている訳でもなく、乗務員から注意されるような事もなかった。 波留には客室に持ち込んだ手荷物はなかった。そのために空いた席の間をすり抜け、さっさと通路に出てゆく。乗船口に向かうに従い、僅かずつではあるが潮の香りが鼻腔に強く感じられるようになってゆく。数人の乗客の背中を追いつつ波留はそこに辿り着き、待ち構えていた乗務員に会釈されつつも下船していた。 船と桟橋とを橋渡ししている乗降通路を歩いてゆくと、ターミナルに繋がっている桟橋には既に人々が列を成している。波留達が乗船していたジェットフォイルは短時間の清掃と整備を経て、また新たに人工島とアイランドを往復する事となる。それを待って乗り込む人々がそこに並んでいた。 その風景は、波留にとってはまるで50年前の通勤ラッシュにも似た感がする。アイランドの港湾の時点でもそうだったが、科学技術の最先端をひた走る人工島にてこんな前時代的な風景を見る羽目になるとは、彼は思っても見なかった。列を成す人々も50年前同様、下船してくる波留達に視線を送る者も居れば、自分の作業に集中していて黙って並んでいる者も居る。多種多様な暇潰しを行っているようだった。 それでも50年前と違うのは、メタルと言う発明を経ている点だった。そのために殆ど全ての暇潰しの行為は各人の電脳で行われ、傍から見ていても何をしているのかは全く判らない。 逆に下船する波留が彼らを見やる。電理研を始めとして、何らかの制服姿の人々も目立っている。様々なメンテナンスのためにアイランドに渡る企業人も多いのだろう。それは始発の船からアイランドに降り立った人々からも判っていた。 しかし、始発同様、私服の一般人らしき人々もかなりの割合を占めている。構造上電通がなかなか出来ないアイランド在住の家族や知己達を訪ねようとしている人々なのかと、波留は考えた。 あのような奇跡の一夜を経た今、きちんと顔を突き合わせて話したい事も出来たのだろう。一般的に高級リゾートと言う位置付けをなされているアイランドだが、そこに老人を放り込んで安心していた家族も、誰もと繋がれたあの夜を感じたなら、彼らにも会いたくなったのだろう――彼はそんな事を思った。そしてそれはいい事なのだろうと心中で付け加える。 ターミナルの建築物内に入ると、下船ゲートを通過しなければ本格的にターミナル内を歩く事は出来ない。つまり、人工島への入島は不可能である。 そのゲートには職員が数人配置されていて、簡単な入島審査が行われる事となっていた。波留の眼前にもまた列が出来ている。彼が乗ってきたジェットフォイルからの下船客が先着しているのもあるし、他の船からも下りてきている人も居るのだろう。 今回の波留達の場合は人工島隣接区画であるアイランドからの入島のため、ここでの審査はそれ程煩雑ではない。言わば同じ国家間を移動しているに過ぎないからである。それでも物理的には密入国の手助けとなり得る海上を経ているために、形式的にではあるが入島審査は確実に行われる事となっていた。その辺りに、人工島の厳しい人口管理体制が見て取れる。 とは言え、波留個人の場合は、彼がゲート職員に先程の定期船における席番を告げるのみで通過出来ていた。職員がその席を検索したデータから、それは電理研より与えられた席であると判明したからである。人工島の住民にとって、電理研とは唯一無二の絶大な信頼を置く企業であり団体なのだ。 そうして波留は無事入島審査を通過し、定期船に貨物として預けていた木箱を受け取っていた。それは波留が両手に抱えて胸に抱くには丁度いい大きさであり、手押し車にでも乗せて移動させた方が良さそうな荷物だった。波留にとっては重さはそれ程でもない。 その木箱は古ぼけて薄汚れていて、表面にはインクで色々と書き込まれているがそれも掠れ薄れている。その上を覆うように配送票が貼り付けられていた。この箱はアイランドの介助施設から譲り受けたものである。 その中には彼が深海から浮上してきた際に纏っていたダイブスーツが収まっていた。大荷物となっているのは、ダイブスーツ単体だけではなく一緒に着用しており水面まで保持して来て回収出来たヘルメット状のパーツも入っていたからである。 更にそれらと箱との合間を埋めるべく、タオルが何枚か詰め込まれていた。そしてタオルの役目はそればかりではない。スーツ類に含まれた海水分の吸収も担っていた。 ダイブを終えて地上に戻った以上、それらは本来ならば真水で洗浄した上で陰干しにすべきである。しかし彼が潜ってきたのは通常の海域ではなく5000m級の超深海であり、更にはメタルへの同時ダイブを敢行してその両方から一旦ロストした身の上である。どんなものが付着してきているか詳しく調査する必要があると彼は思い、不用意に洗浄してはいなかった。このまま浮上してきているので今更かもしれないが、洗い流した事でアイランドに何らかの汚染が広まる恐れも考えられたからだった。 |