その頃には荷下ろし作業も大方終わり、これからの乗客の乗船も始まっていた。波留は乗船手続きを終えたそのまま、乗船口に向かう。人の数は多いが滑らかな流れに乗って、彼はしっかりとした天然の大地から僅かに揺れる船上へと脚を進めていた。
 定期船が出航するまでにはまだ時間があった。現在では乗客の乗船の他にも、貨物の運搬や車輌の乗船が行われている。未だ着岸ロープは港に結ばれたままで、錨も下ろされている。
 船上に伝わる安定した揺れの中、波留はデッキに出ていた。出航前であるために他の乗客の中にも席にまだ着かず、海の風景を楽しんでいる者も居る。港内の潮の流れは緩やかで、白い泡が筋を作って流れている。その先にある外洋も凪いだ状態で、波も穏やかだった。
 その海の向こうには明るい太陽が昇ろうとしていた。海面をその光で黄色に染め上げ照らし出す。
 更にその向こうには、島影が見えていた。現在の天候は快晴であり雲も目立っていない。そのために5キロ先に存在するアイランドよりも広大な、人の手で組み上げられた島がくっきりと見通せた。
 月面プラントから照射される発電用マイクロウェーブを受信する施設や、太陽光発電のための集光用鏡面が、このアイランドの港内からも垣間見る事が出来ていた。自然を意識して設計されている人工島の中では、唯一目立つ人工物の類である。それは視力が良い波留だけではなく、おそらく一般の乗客からもある程度は見えていた。それ程までに、朝の空気は澄み切っていた。
 外洋を眺めていた波留は、ふと振り返る。その視線のすぐ先にあるのは、天然の岸壁だった。アイランドの波打ち際となった岸壁に、飛沫が白く上がっている。
 また別の方向を見ると整備された港湾がある。そこでは船員や職員が動き回り、慌てて乗り込んでくる客の姿もあった。その様子からして、出航時間が迫ってきているらしい。
 波留はデッキの手すりに両手を着く。その鉄骨を強く握り締めた。鉄の冷たい感触が彼の両手に伝わる。それから彼は腕に力を込め、爪先で立ち、伸びを打った。勢いをつけて上体を海へと突き出す。彼の下方では波がフェリーに弾け、その冷たい飛沫が顔に感じられた。長い前髪と後ろで結ばれた長髪が垂れ下がり、彼の視界に届いてくる。
 そして波留は爪先から踵までをきちんとデッキの床につける。身体を引き戻し、バランスを取った。真っ直ぐと立つ格好に戻した所で、彼は手すりから手を離す。
 彼は眼差しを上げた。自らの瞳に海と空を映し出す。
 そして右手を胸の前に持ってくる。そこに拳を作り出した。彼はそこに視線を落とす。何気ないような表情でその手を見ていた。そこに朝の太陽の光が降り注いでくる。
 その拳に徐々に力が込められてゆく。指がぎりぎりと音を立てる。眉を寄せる。口許が僅かに歪んだ。
 彼は、降り注ぐ光から逃れるように俯き加減になる。前髪が彼の顔に影を落とした。不意にそこに緩やかな風が吹き抜けてゆく。前髪と後ろ髪が風の流れに従ってそよいで行った。
 波留はそこに視線を落としたまま、左手を胸の前に上げた。歪んだ口許が何かの感情を噛み殺すような印象を見せる。その開いた掌に、右手の拳を叩き付けた。
 それなりに大きな音がしたが、所詮は人間の肉体同士がぶつかり合っただけの音である。彼の近辺に居た人がその音を聴いただけだった。波留の方をちらりと見やるが、波留当人はその視線を一向に気にしない。
 口許に確実な笑みを浮かべ、そこから軽く息を吐き出す。手を解き、ゆっくりと下ろした。腰に両手を当て、風の吹き抜ける先の海を見やっている。その自然な様子に、彼に視線を向けた人も関心を失った。
 船上に女性のアナウンスが響き渡ってゆく。出航の時刻が迫っているので、そろそろ席に着くように指示するものだった。デッキに居た人々もそれに従い、船室への扉に進む。
 波留も彼らに続いていた。彼は船に慣れた人間であり、それに関連した指示には素直に従う性質だった。定期船の無骨な甲板で靴音が立つ。
 進みゆく彼は、ふと後ろを振り返った。足を止める。
 彼の視界の先には相変わらず広大な海が広がっていた。青空には太陽が徐々に浮かび上がりつつある。近辺にはアイランドの天然の岸壁がそびえ立ち、港内に影を落としている。
 背後から促す声がする。彼が足を止めたのは数秒程度だったが、後ろに人が控えている場所においては多少迷惑な行為であった。それに思い至り、波留は困ったように笑って会釈して詫びる。そのまま前に進み、船室へと一段下がっている入口に屈み込んで身を滑り込ませた。
 港に風が吹き抜けてゆき、岸壁で波が弾けた。
 
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