昨晩の未曾有の大事件を経て、人工島とその周辺地域は平穏を取り戻していた。 しかしその災難は去ったとは言え、電力とメタル双方の復旧は、電理研総力を挙げての大事業だった。何せ世界中を巻き込んでの自発的なダウンである。各地域と連携しつつ作業を進めて行かなくてはならなかった。 あの沈黙の夜、彼らは黙って原初の闇に浮かぶハレー彗星や星月を眺めていた訳ではない。息抜き程度に外に出て眺める者も居るには居たが、それから先は来るべき復旧の時刻に向けての準備に追われていた。無論、ダウン時における緊急事態に応対するための人員も割り振っていた。一般市民はある種の長閑な日中を送っていたが、電理研関係者はその長閑さを保つために奔走していたのだ。 そしてメタルが復旧した直後、1時間程度の現在でも、電理研内部は慌しいままだった。何せ初期化状態にあるメタルの再設定もあれば、そのメタル内に何故か残留が発見された断片化データの解析の必要もあった。 世界的にも人工島においてもメタルダイバーは慢性的に人員不足であり、評議会やその他企業などから緊急事態としてダイバーを回して貰っても、全く間に合っていない。彼らとは違い、メタルにダイブせずに外部からコーディングを行う昔ながらのプログラマーも電理研管理部に多数所属しているが、現状においては彼らの数すら足りていない。それでもどうにかこの状況を回してやり抜くために、奇妙な活気が電理研内に満ち溢れていた。 そんな中、その激震地である電理研管理部に所属している蒼井衛のデスクに、固定回線経由の通信が送信されてきていた。 彼は前述のように多忙の身の上であり、関連性のない電通には応対しないつもりだったが、その送信元がアイランドである事に興味を持った。電通者の名前が表示されないのは、電脳障壁が立てられているアイランド特有の回線を使用しているからだろうと考える。 蒼井衛はその回線を自らのデスクに繋ぎ、開いた。するとデスク上の固定端末に画面が展開される。そのダイアログに映し出されたのは、黒髪の青年の姿だった。 その彼を見やりつつ、衛は奇妙に感じた。この若者の姿に、直接的に見覚えはない。しかし、何処となく記憶を刺激される顔立ちだと思ったからだった。何より衛へのこの直通回線を知っているからこそ、今この場に回線が繋がっているのである。それこそが、彼と自分とが知り合いである証左であった。 ――初期化してしまったメタルの領域に、その記憶を保持していただろうか?メタルに頼り過ぎた生活も考え物だと、昨晩を思い起こして彼は自戒していた時の事だった。 「――…蒼井さん。信じて頂けないかもしれませんが…僕は、波留真理です」 画面に映し出された黒髪の若者は、若干の躊躇いを見せつつも結果的にはさらりとそんな事を衛に告げてきたのだ。結果、衛の意識はしばしフリーズする。目の前の若者が発した「波留」との言葉に全く反応出来ない。 「お忙しい中、申し訳ありません。しかし部長代理たるソウタ君にはなかなか繋いで頂けない可能性がありましたので…僕の現状を出来る限り早く電理研の誰かに確実にお伝えする必要がありましたので、あなたの回線にお邪魔しました」 「…はあ…ええ、その判断は、正しいと思います…」 衛はそう答えるのが精一杯だった。無意識に彼は自らの眼鏡の蔓を指で摘み、ずらす。俯き加減になり、額を手の甲で拭った。 確かに彼の実子である蒼井ソウタは、電理研統括部長久島永一朗のブレインダウン症例発症以降、その代理の地位に納まっている。若いながらも久島の弟子との立場を考慮しての抜擢であり、無論その周りは元からの電理研幹部達が固めている格好となっている。言ってしまえば建前上の電理研トップであった。 建前とは言え――或いは建前だからこそ、現在の彼は多忙を極めていた。在りし日の久島部長に匹敵する仕事量を抱えて、懸命に処理している所である。そこに得体の知れない外部からの回線から連絡が来た所で、門前払いを食らわされるのがオチだろう。 だから衛は、この自称「波留」の若者の判断に間違いはないと感じていた。そして彼の知る波留は、このように理知的な判断が出来る人物だった――彼が知る「波留」とは、老人なのだが。 |