ミナモは微笑んで、波留に手を差し伸べた。波留も笑い、その手を取る。特にミナモに重心を取って貰うような事はしていないが、彼はそのままリクライニングチェアから身を起こし、降りて立ち上がった。
 今までそこに横たわっていた波留が立ち上がった事で、ミナモの視点も下方から上方へと変化する。その変化にも対応し、ミナモは波留の顔をじっと見続けていた。
「波留さん。メタル、復旧したみたいですよ」
「…そうですか?」
 ミナモにそう言われ、波留は視界を巡らせた。立ち上がった事で遠くを見通せるようになり、視線が奥の施設に行き着く。
 夕方の時刻になり、空も暗くなり始めている。そんな状況の中、施設のあちこちに点在する窓には灯りが垣間見られていた。と言う事は電力が復旧したと言う事であり、ひいてはメタルも再起動したと考えられる。どうやら何事もなく予定されていた作業は終了していたらしい。
 もっとも、電脳障壁が常時立てられているこのアイランドでは、メタルの復旧を自覚するのは難しい話なのだが。障壁もまた復旧している様子だった。
「電理研と連絡を取らなきゃいけないんですよね?」
「ええ。ソウタ君達が心配しているでしょうから」
 何せリアルの超深海ダイブとメタル深層へのメタルダイブとを同時に行い、その双方で電理研側からは彼はロストしているのだ。最早「心配」などと言うレベルではなく、おそらくはもう海の藻屑扱いであり生存は絶望視されている事だろうと波留は思っている。
 だからこそ出来る限り早く無事を連絡する必要を感じていた。無用の心配をさせているのならば、それを早く解消してやらなければならない。
「共同の通信端末の場所、判りますよね?」
「ええ。春先までここにはお世話になっていますから」
 そんな会話を交わしつつ、ふたりは手を取り合ったまま並んで歩いてゆく。特にどちらとも、手を離す気にはならない様子だった。
 実は春先までの滞在において、波留は自分で通信端末を使用した事はない。生活用品は施設で準備されているし、彼独自の観測のための資材の発注などのメタルを用いる用件全てはホロンに任せていた。そして彼にはプライベートで通信する相手も存在しなかった。
 彼にその気さえあれば、電理研統括部長にすら直通回線での連絡が可能だったはずである。しかし当時の彼は、そんな気分になり得なかった。それが後日、不貞腐れていたと思い返す状況だった。
 人工島に移住してから暫く、彼はその当時の心境を笑い話に出来るようになっていたが、7月のあの日以来には再び笑えなくなっていた。その「不貞腐れていた」日々を悔やみ始めていた。
「皆、連絡したい人が居るらしくて、凄い行列作ってましたよ」
「そうですか」
 ミナモは自由な片手を大きく振って、その凄さを伝えようとする。その表情も豊かであり、波留は微笑んで頷いた。
 共用端末は施設内の数箇所に設置されている。彼はそう記憶していた。通常時には利用者が待ち時間を殆ど費やさないだけの数が確保されているはずだった。
 しかし施設に滞在する患者やその関係者、或いは職員達からもかなりの人数が端末に群がったとするならば、絶対に捌き切れないだろう。この手の施設にありがちな事に家族と没交渉となっている患者も少々存在していたが、彼らを差し引いてもかなりの人数が連絡を取ろうとしているのではないかと波留は考えた。
 しかし、現在の彼自身は暇な身分なので、気長に並ぼうと思った。早く連絡すべきとは言え、他の人間を押し退けてまでやる事でもなかった。だから、少々待たされても一向に構わない。
「――あ、そうだ」
 そう言って不意にミナモは足を止めた。繋いだ手もそれに合わせて揺れる動きを止める。
 彼女は波留の方を向く。波留も彼女に合わせて歩みを止め、微笑み掛けた。軽く頷いて、先を促す。
「後で夕食御一緒しませんか?ユキノちゃんやサヤカも、波留さんと話したいって言ってます」
 少女のその台詞に、波留は首を傾げた。胸に片手を当てて尋ねる。
「…僕などが同席して、いいのですか?」
 実習生の食事に部外者が同席してもいいのだろうか?――そんな疑問が彼の中にあった。しかしミナモは相変わらず微笑んでいる。
「波留さんが良ければ。病棟と言っても、食事も普通のものが出ますよ」
 そんな風な台詞を発した後に細かな説明を続ける。
 ミナモ達介助実習生は、世話をしている老人達が自室に落ち着いてから自分達の食事を摂る日常となっていた。だから、これから少し遅い時間帯になるだろう。そう言う訳なので、波留が電理研と連絡を取るために共用回線設備に並んで要件を済ませる頃で、彼女らと丁度時間は合いそうだった。
 食事に関しては、元々患者の見舞いに訪れた一般人に対して用意する事もある。勿論実費を請求される事となるが、制度としては確立していた。現在のこの波留にもそれを適用し、前もって申請しておけば、彼の食事も準備する事が可能だった。現在はある種の緊急事態ではあるが、1食程度ならばどうにか都合がつけられるだろう――そう言う説明をミナモは行って来ていた。
 確かに少し考えれば判るような事ではあった。4ヶ月程度は滞在していた場所だと言うのに、彼はそう言った制度を利用する事もなかった。誰も彼の元を訪れず、或いは訪れさせないような生活をしていたのだから。
 そう言った感慨はミナモに対して明かさない。波留は単に納得した旨を伝え、彼女の申し出に頷いてみせた。
「――じゃあ、そう言う風に事務員さんにお願いしておきますね」
「はい」
 ミナモは波留にそう言って笑い、波留はにこやかに頷いた。現在では自分よりも彼女の方が、この施設に馴染んでいる身分だった。彼女に全てを任せる事にしよう――彼はそう思っていた。
 施設内部ではメタルや電力が復旧した事もあり、様々な人々が慌しく動き回っている。ふたりはその廊下を歩いてきていたが、そんな会話を終えた段階でひとまず別れる事となった。
 ミナモは担当患者の介助へ戻り、波留は電理研への安否連絡のために共用端末へと並ぶ。とりあえず、やるべき事は互いに存在していた――それらの重きは同等なのかは別問題として。
 
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