波留の耳元で鳴り響いているのは、何時の間にか潮流が掻き立てる音ではなく、柔らかに吹き抜ける風の音に変化していた。
 閉じられた瞼の向こうにも、冷たい海の闇ではなく温かな光を感じている。波留はゆっくりとその瞼を上げる。
 彼の開けた視界には、帯状の雲が広がる赤い空があった。その下部には黄色い太陽があり、水平線にその身を半ばまでめり込ませている。空と海とを赤や黄色などの光の色彩を与え、そして場所によってはその他の色合いにも変化させていた。複雑な色調を自然が生み出している。
 その太陽の位置から、波留は現在が夕方の時間帯である事を悟っていた。
 人工島付近の「夕方」とは、かなり遅い時間帯である。おそらくは午後7時を回ってしまっているだろうと彼は推測する。彼は未だ時計を持ち合わせていないし、メタルに接続する事もない。彼はその眼で見た事象からその推測を導き出していた。
 彼の後頭部や背中には、木製のリクライニングチェアの板目が接触している。そこは自らの体温が篭り熱を帯びていた。衣服に覆われた素肌には、若干の汗を掻いているのを感じる。
 彼は片手を顔に伸ばし、目許を押さえた。軽く身体に力を込め、伸びを打つ。昼下がりにここに来たはずだが、現在では夕方である。数時間を経過している。かなり熟睡していたらしい。
 やはり疲れていたのだろうかと彼は考えた。リアルにおいてもメタルにおいても、或いはその両方を同時に行う事自体こそ、ともかく全てにおいて常識外れのダイブだったために、今まで疲れの実感も沸いて来ていなかったのだ。
 不意に彼の顔に影が射した。そしてこのテラスで物音を聴いた気もした。だから彼は、自らの隣に視線を寄越す。
「――波留さん」
 そこに、少女の声が聴こえてきた。自らの隣には馴染みの少女が立っている。ざわめく風に彼女の長い髪がなびいていた。そこに大きなリボンが目立って揺れている。
「ミナモさん、おはようございます」
 その彼女の存在を認めると、波留の口からは暢気な声と台詞がついて出てきた。目許を押さえていた手を離す。そんな彼をミナモは覗き込んでいた。
「この島いつも夏だけど、流石にもう涼しくなる時間帯ですよ」
「そうですね…」
 まるで老人をやんわりと嗜めるような台詞に、波留は顔を振った。つい最近までは彼女からはそんな扱いを受けていたものだった。そう思いつつも彼は上体を起こす。
「波留さん、着替えたんですね」
「ええ」
 起き上がった事で、熱を持った背中に空気が通るのを感じる。波留はミナモの言葉を首肯しつつ、そう言えばと思い返す。彼女とは早朝に海から揚がってから、あの場で別れたきりだった。だからダイバースーツ姿しか彼女には見せていないはずである。
「波留さんのそんな服装、見るの初めてです」
「…変ですか?」
 ミナモの台詞に、波留は思わず自らの襟元を摘み上げてその目で見てみる。
 こう言った服装は、客観的には50年前、彼の主観では8ヶ月前には当たり前に着こなしていた。しかし、老人の容貌の際には一切纏っていない。黒いシャツはともかくとして、ジーンズは流石に老人には似合わないだろう。特にその当時、彼は車椅子の住民で介助されるべき弱い立場だったのだから。
 そう考えると、介助する立場として付き合いを始めたミナモにとってはこの服装は意外なものであり、イメージと違うものだろう。だから、似合わないと思うのかもしれない。波留はそんな考えに至っていた。
 その元老人の考えは、態度からも微かに染み出して来ていた。ミナモもそれを受け取り、慌てた風に両手を自らの胸の前でぶんぶん振った。明らかに否定している。それは言葉と言う判り易い形でも表れた。
「そんな事ないです!むしろ――」
 しかし、彼女は台詞の途中で口篭る。言い掛けたまま台詞を中断し、黙り込んでしまった。何故か彼女の頬に赤味が射している。
「…むしろ?」
 怪訝そうに波留が訊く。流石に言い掛けたまま終わられては、言われた彼としては少し気に掛かる。
 その彼を見ていたミナモは、軽く俯いた。視線を外す。しかし赤く頬を染めたまま、ぼそりと呟くように言った。
「………かっこいいです」
 少女の口から発せられたその言葉は小さな音声だったが、穏やかに凪いだ空気の中、波留の耳に届いていた。
 それを認めた彼は、一瞬きょとんとした表情を見せる。が、すぐに目を細めて笑った。何処となく照れ臭い気分になる。
「…ありがとうございます」
 照れた笑みを含んだその台詞をミナモは訊き、彼女は意外そうな表情を浮かべた。波留の方を見る。
 しかし彼女もまた微笑した。頬の赤味は若干薄れていたが、完全に解消はされていない。波留を覗き込むように、笑い掛ける。そうやってふたりで微笑み合っていた。
 
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