とりあえずの用件を終え、波留が介助施設まで戻った頃には、時刻は昼下がりとなっていた。
 彼は時計を持ち合わせていない。今まで身につけていた50年前のダイバーウォッチも、5000m級の深海には流石に持ち込んでいなかった。そのために彼が時刻を把握したのは、施設の受付付近の壁に設置されているシンプルな壁掛け時計を見てからである。
 メタルに接続すれば現在の時刻は容易く判るのが、今の世の中である。しかし電脳障壁が打ち立てられているアイランドではそれは不可能な話である。そのために、アイランドの建物のあちこちには前世紀のように時計が配置されており、住民達の多くも腕時計をつけていた。
 そもそも現在はメタルが落ちていた。仮に回線を確保していたとしても、時刻の把握のしようがなかった。
 商業施設のショップにて服を購入し着替えた格好の波留は、介助施設から借りていた制服を返却した。
 本来ならば自分でクリーニングに出してから返却するのが礼儀ではあるが、何せ街中ではその手のサービスもすっかり麻痺してしまっている今日である。逆にここは介助施設である以上、クリーニングの装備も整えられている。実費は改めて請求すると言う方向で話をつける事とした。何はともあれ、電力とメタルが復旧しない事には話にならない。
 ――そう言えば、あれ以来何も食べていなかったな。
 波留にそんな考えがふと脳裏に去来すると、急に空腹感を覚え始めていた。
 この島に来てから、平穏とは言え色々と慌しい状況が続いていた。そんな最中には何も感じていなかったが、日常のペースを取り戻しつつあると、そんな日常めいた欲求が彼の中に湧き上がってくる。彼は28日の昼下がり以来、食事としては何も口にしていなかった。
 あのミナモに別れを告げたランチが最後の食事になっていた。彼にとってあれが昼食権夕食になっており、翌朝からはダイブだったために食事を摂っていなかったのだ。もう丸二日にもなる。
 店が開いてない以上、自動販売機で何か買おうにもメタルが落ちているためにそれも適わない。こうなると、介助施設の食事の時間に自分の行動を合わせられていない事がもどかしく思えてくる。
 半年前、彼がここに患者として滞在していた際には、まともな食事は摂っていなかった。生きてゆくための気力が最低限のレベルにしか至っていなかったために、人間の原初の欲求であるはずの食欲すら沸いて来なかったのだ。だと言うのに、現状はこうである。あの頃と同じ風景を見ているのに、不思議な気分だった。
 施設内を歩いてゆくと、それなりの人数の患者と、それぞれに担当している介助士や実習生がちらほら見受けられた。しかし波留の馴染みの少女達の姿は見当たらない。彼女らが担当している患者の病室に詰めているのか、或いは別の様々な仕事をしているのだろうと彼は推測する。やはり半年前の経験から、介助とは色々と手間がかかるものだと彼は知っていた。
 ともかく、今の彼には少女達に特に用件がある訳でもない。だから、探すまではしなかった。姿が見当たらないならそれでいい。
 波留は廊下を通り抜け、外へと歩みを進めた。海に突き出した桟橋を歩き、テラスに出る。ここは彼にとって、とても馴染みが深い場所だった。彼は暇さえあれば、体調が許す限り、病室を離れて車椅子をここまで走らせ、海を眺めていた。
 そして今、彼はその脚でテラスの先端に立ち、その海を眺めている。海風を身体に存分に浴びている。髪がなびき、首筋や耳をくすぐる。黒いシャツが風を含んで膨らんだ。瞼を伏せて彼は風を感じる。
 ――あの頃は絶望ばかりしていた。海を眺めたまま死ぬのが夢だとすら思っていた。
 しかし、あの頃から海は輝いていたはずだった。僕はそれを全く見ていなかったのだろう。こんなにも美しい海だと言うのに。
 そのテラスには、いくつかの椅子が並んでいる。おそらくは日光浴のためらしい、木製のリクライニングチェアだった。しかし今はそれを利用している人間は誰も居ない。
 波留はそのひとつの椅子に、何気なく腰掛ける。太陽の光を浴び続けた事に拠るのか、木製の椅子の表面は熱を持っていた。そこに接する脚や腰に、心地良い温かさが伝わってくる。
 彼は手を椅子の付け根の辺りに伸ばす。手動で椅子を操作し、椅子をリクライニングさせた。日光浴に最適な角度に持ってゆき、そこに寝転がる。伸ばされた背中の感触が気持ち良い。
 海から爽やかな風が柔らかく吹いてくる。それに伴い、潮の香りが漂ってきた。彼の前髪が風によって軽く揺すられる。彼は目許に手をやり、影を作った。その向こうに太陽が輝いていた。
 今まで潜るばかりか泳いだり歩いたりと、身体を動かしてばかりだった。しかし今、心身共にこうやって落ち着いている。楽な姿勢を取り、暖かい熱に包まれた気分になると、急に疲れが身体から染み出してきた。
 こうなると、瞼が重い。精神的な重力に従い、瞼が下りるとその向こうに明るい光を感じた。しかしそれは彼の眠気を邪魔するには至らない。眠りに落ちてゆく心地良さを前にして、彼はもう抵抗せずに意識を手放した。
 
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