昨晩、波留は地上には居なかったために、その状況を直接的に体験していた訳ではない。しかし海の深層と呼ばれた場所に至った際に、感覚的には悟る事が出来ていた。そこに先着していた親友の口からもそれは説明されている。 メタルと電力が人為的に停止された昨晩、人と人は繋がる事が出来た。メタルを始めとしたシステムに頼る事なく、単に手を取り合って重ね合わせるだけで安心する事が出来る。そしてそれは相互理解にも発展した。 人類が人工的な光を得たこの数世紀、完全なる原初の闇に地球が包まれる事は今までなかった。そんな闇を凪いだ海は照らし、空に輝く星と月が異様なまでに深々とした雰囲気を醸し出している。その空には76年振りに地球に回帰してきたハレー彗星が、冷たくも暖かい光で闇を穿っていた。 そんな奇跡のような夜は、あっという間に過ぎ去ってゆく。それが明けたのが、今日だった。あの異様な夜から日常が復帰したようでいて、やはり何処と無く違う空気が流れている。 考えてみれば、一切の電力が落ちているのである。メタルやそれ以外の電力で制御される全てのセキュリティは無効となっていた。 だと言うのに、暴動の類は全く発生していない。 このアイランドだけではなく、おそらくも人工島もそうなのだろう。対岸から波間に垣間見る事が出来る向こう側の島の様子は、いつもと変化していない。 電力とメタルのカットと言う非常事態であるはずなのに、少なくともこのアイランドにおいてはゆったりとした空気が流れている。その理由は、昨晩の貴重な体験が人々の裏付けにあるからだろう。 それに、夕方にはメタルと電力が無事復旧するという予定を、全ての人々が把握出来ている事も人心を安堵させる助けになっているはずだった。約束された日常の中で、一瞬出現している非日常と言う構図である。 「――では、お言葉に甘えます」 波留は頷いた。店長に笑いかけ、手元のジーンズに視線を落とした。軽く広げてみて、詳細を確認する。 「ああ。あんたスタイルいいから何着ても似合うんじゃね?――あーでも、割と筋肉ついてそうだよなー余裕持ったサイズがよさ気だなーシャツの色はやっぱ細く見える黒が無難かー」 店長は波留に無遠慮な視線を送りつつ、そんな台詞を並べ立てていた。言いながらハンガーから手早くシャツを何種類か見繕う。波留はジーンズを手元に中途半端に広げた状態のまま、そんなプロとしての勢い良い作業を半ばぽかんとして見てしまう。 が、やはり悪い気はしない。様子を見ているうちに、その口許には微笑が戻っていた。 |