波留がダイバースーツを脱ぎシャワールームで自らの身体を見やっても、確かにそこにあるのは若い肉体だった。女子中学生達の反応からも海間に微かに自らが映った事でも、顔からすっかり皺が消えて髪も黒くなっている事は把握していた。しかし全身が若返ってしまった事を、今こうして曝け出した事でようやく実感する。 シャワールーム備え付けの鏡に上体を映し出すと、胸から首筋にかけてあるべき古傷の跡も見当たらない。どうやら本当に50年前の身体に戻されてしまったらしい。 これが「水の力の一端」に拠るものなのか。この事態は彼の理解の範疇を超えていたが、実際に起こってしまった以上受け容れる他ない。常識に捉われない柔軟な思考は、彼の長所のひとつであった。 シャワーを浴び身体を洗っても、彼から潮の香りを消し去る事は出来ない。それらは彼に染み付いていたし、彼自身落とし去るつもりがなかった。 常夏の海域とは言え体温よりも低い水温の海に浸かり続けた身体に、暖かな湯で体温を取り戻させる。ダイブ直後のシャワーで心地良い気分になるのは、彼にとっては馴染みの感覚だった。 しかし今回に限って言えば深海5000m級への超深度ダイブであり、しかもそこから急に浮上させられたのだ。常識では計り知れない体験である。なのにこうやって馴染みの感覚を取り戻した事には、彼は日常への帰還を痛感した。 彼はシャワーから上がり、介助施設らしく無地の白いバスタオルで身体を拭く。長髪も手荒に拭き上げた後に備え付けのドライヤーで乾かした。それらの設備も春頃までは彼にとって馴染みのものだった。違うのは、あの頃はそれらを他人の手を介して用いて貰っていたのに対し、今は自分の手で使用している点である。 着替えとしては、介助施設職員の制服を借りていた。この施設においてすぐに準備出来る衣服とはそれであり、波留も特に選択する気がなかった。 細身ではあるが程好く筋肉がついている身体を白衣基調の制服に包むと、こんな介助士も居るかもしれないと思わせるものがあった。メタルを初めとした科学の進歩に助けられているとは言え、介助士とは前世紀から体力勝負である職業なのだから。 黒さを取り戻した長髪は、ひとまず老人であった今まで通りに後頭部で結んでおく。50年前の位置で結ぶには余分な長さがあり、切る必要があった。 そんな容貌の彼が身支度を整えて施設の廊下に出た頃には、既に朝食の時間は過ぎ去っていた。色々やっているうちに予想以上に時間を喰ったらしい。 「朝食の時間」と一言で言い表したが、介助員の食事は早朝である。そして彼らが世話をしている入居者達の朝食はその後になる。 基本的にある程度の財産を保持している裕福な老人が入居する施設だけあって、その時間帯も融通が利くようになっている。しかし患者である以上、その融通にも限度がある。そんな彼らも全員、食事を終えている時間帯だった。 波留の馴染みだった女子中学生達も既に自分達の実習に戻っていた。彼女らには自分達のやるべき仕事がある。そう思うと彼としても、何時までも関わり合っている訳にもいかなかった。 波留は今、暇な立場である。メタルが復帰しない限り人工島との通信も出来なければ、定期船も運航しない。人工島に戻れないし、彼にダイブの依頼を課した電理研への事後報告も出来ない。だから、彼には現在、何もする事が見当たらない。 しばし廊下に佇んだ後に、彼はひとまずこの島を歩いてみる事にした。やはり若干の胡散臭そうな視線を送ってくる受付の事務員に対して外出する旨を伝え、波留はこの制服のまま施設の外へと出て行った。 |