しかし、唐突にその沈黙は破られた。 それは外圧によってである。食堂の扉が音を立てて開かれ、靴音がかつかつと室内へとやってきたのだ。 まさか早朝から食堂に誰かが居るとは思っていなかったらしい。その人物は眠気を振り払うように顔を振りつつ、白衣の裾を翻して室内に無造作に入って来ている。そして入り口から流しへの道程を進もうと方向転換した際に顔を上げ、そこで異変に気付いていた。 「――あら、ふたりとも。朝からどうしたの?」 ブラウンの前髪を掻き上げつつ、その女性は流しの前にたむろしていたそのふたりに声を掛けていた。 彼女は徹夜明けを如実に表した顔をしており、この晩の最後に何時整えたのか判らない化粧は落ちかけていた。しかし元々のメイクが薄かったためか、普段の印象からはそうは変わらない。そもそもが快活な印象の女性であり、今のこの状況でも浮かべる笑顔が明るかった。 早朝からこの食堂で作業を進めていたふたりの男は、この闖入者を目の当たりにする。視線を彼女に集中させてみるが、先に我を取り戻したのは蒼いバンダナで髪を纏めている青年の方だった。 彼は人好きのする普段からの笑顔を浮かべる。僅かに白い粉が付着したままのその顔で軽く会釈しつつ挨拶の言葉を述べていた。 「…洋子さん。おはようございます」 「おはよう、波留君」 声を掛けられた女性も笑顔で返す。彼女は蒼井洋子と言う名であり、白衣が示す通りにこの電理研のれっきとした研究職だった。 女性ではあるが、この多忙な電理研ではその扱いはほぼ男性と同様である。独身であるためか、彼女の待遇には殆ど気は遣われていない。男性職員同様に昼夜を問わず仕事場に篭り、徹夜続きの身の上だった。 そして彼女自身、そんな扱いを望んでいた。しかしそこに気負いは感じられない。自然体でこの過酷な業務に携わっていた。 洋子は視線を巡らせる。状況確認の意味合いを込めつつ、波留や隣の久島に眼をやり、次いで流しの上や更に向こうのIH調理器などを見やっていた。そこには自らを主張するように、沸騰したお湯が音を立てている鍋がある。 「――何してるの?料理?」 怪訝そうな洋子の声が、沸騰し泡立つ鍋の音に被った。彼女はふたりの間に割り込んでゆき、その鍋を覗き込もうとする。 そこに居た久島は戸惑うような表情を浮かべ、一歩を引いた。洋子に場所を譲る。そして洋子は久島をちらりと見た後、そこに収まった。鍋肌から上がってくる湯気を顔に当てる。 彼女の傍らに波留が立つ。爽やかな笑顔を浮かべつつも、菜箸で鍋の中から白く茹った麺を摘み上げた。 「うどんですよ」 「へえ…」 波留からの簡潔な説明に、洋子は感嘆の声を挙げた。しかしそれも大袈裟なものではない。驚きの色は薄い。どうやら彼女の中では、この食堂で料理をしている光景を特別変だとは認識していないらしい。――波留君なら、そう言う事もあるんでしょう。そんな印象を持っている様子である。 この女性に受け流された格好になる波留は、軽く微笑んだ。自分の作業に集中する。茹で上がったうどんをザルに取り上げ、蛇口から冷水を注いで、表面のぬめりを取っていった。その間にも寸胴にはまた次のうどんを一掴み、投入していく。 そんな手際の良い波留の作業を、洋子は興味津々な表情で見ていた。その横顔を手持ち無沙汰に眺める久島は、やけに好奇心旺盛な顔だと思った。――全く、このふたりは似ているのだろうか。 ふと、洋子が波留から視線を外す。久島をちらりと見た。この同僚の男から、ある種無遠慮な視線を注がれていた事に気付いたらしい。 頭ひとつ背が低い女性から上目遣いでまじまじと見つめられると、久島は軽く腰が引けてくる。その視線から逃れようと、今度は彼が波留へと視線を向けた。 波留は、相変わらずうどんを茹でる作業を続けている。IH調理器の1機がフル稼働していた。調理器自体と沸騰した湯とが存分に熱量を周辺へと発散している。 しかし、その隣にあるもう1台は暇を弄んでいた。同様に、流しに置きっ放しの調味料の類も一切手をつけられていなかった。 久島は、その1機には別の役割が与えられるべきだった事を知っている。しかし波留はあくまでもうどんを茹でるのみだった。その真意を鑑みるに、多少気まずい想いが久島の心中に去来する。その一方で当てつけられているような気もして、若干座りが悪い心境だった。 その場に居合わせた3人が一切言葉を発しない間も、ぐつぐつと言う音が鍋から響いてきている。そのために室内に全くの沈黙は下りてこない。 そして、洋子が口を開いた。久島を見上げたままだった彼女は微笑み、その相手に対して問いかけてきた。 「――これ、久島君への誕生日プレゼント?」 |