その言葉に、久島は目を瞠った。――何を言われたのか、把握しかねた。
 しかし一瞬後には言葉の内容を脳内で反芻し、意味を捉える。そしてその言葉の真意を確かめるべく、思考を巡らせた。端的に表現するならば、今日の日付を不可視のカレンダーで捲り上げてチェックしていた。
 何せ彼らは昼夜を問わず働いている身の上である。その毎日においても、仮眠を摂る時間は一定ではない。徹夜する晩もあれば、きちんと夜に眠れる日もある。そのために日程への感覚が薄れがちで、唐突に問われても「今日が何日で何曜日か」を思い出せない事もあった。
 とは言え、業務の納期やその進捗カレンダーは彼らの仕事には確実に存在する。それを思えば、今日の日付を把握しておく事は必須と言っても良い。だから少し考えたら、ちゃんと日程を思い出せるものではある。
 しかし、それも仕事に関わる日程のみである。仕事に生きる社会人とは、それ以外の全てを削ぎ落として人生を送りがちだった。
 久島もその例外ではなかったらしい。洋子からの問いに対し、返答に窮していた。そのうちに笑顔だった彼女の表情が、怪訝そうに変化していく。それを目の当たりにした久島は、戸惑いがちに頬を指で掻いた。
「――…いや…すっかり失念していた」
 彼は、その事実を告白して返答するだけで精一杯だった。そんな彼の態度に、洋子は口を尖らせる。
「何それ。自分の誕生日すら把握してないの?もう、そんなに歳を取りたくないの?」
 洋子の言い分に、久島は眼を細めた。苦笑気味な顔を見せる。
 確かに自分は、もういい歳ではある。社会においてはまだまだ「若造」扱いではあるが、30歳を過ぎた頃には個人的には自らに「若さ」を覚えなくなっていた。
 特に、この親友はまだ20代にしがみ付いている現状である。それを思えば、むしろ若いままではいられない気もしていた。
「そう言う訳ではないのだが…こう忙しいとつい、今日が何日なのかを忘れてしまう」
 しかし久島は、その心中を口には出さない。あくまでも一般論としての考えを言葉にした。それもまた自らの中にある考えのひとつではあるために、嘘はついていないつもりだった。
「いくら忙しくても、日々の生活には余裕は持たないと駄目じゃない」
 その久島の述懐に、洋子は反駁する。呆れたような声でそんな台詞を言っていた。
 久島は、それを確かに正論だと思う。仕事に充実しつつも、それが過大な負担にはなっていない――そんな人生が人間にとって、理想なのだろう。
 ――気持ちに余裕がないから、妙な枝葉で腹を立ててしまうのだろうか?――ふと、そんな事を思った。
 傍らでは、彼の親友がうどんを茹でている。手打ちで仕上げた大量のうどんを地道に処理して行っていた。
 その様子を眺めて、久島は笑った。
「――だそうだぞ波留」
「…何が」
 久島の声に、波留は短く応答する。菜箸を鍋肌に添えつつ、久島をちらりと見やった。ある程度の時間を計りつつ茹で続けているようで、その表情は真面目そのものである。
 何処か面倒臭そうな態度を見せる波留に、久島は肩を軽く揺らして見せた。微笑みを浮かべ、更に続ける。
「今日は私の誕生日だそうだ。ならば君も、少しはうどんのつゆについても配慮してくれてもいいのではないか?」
 内容だけは若干真面目腐っているこの台詞には、波留は眼を瞬かせていた。
 久島をまじまじと見つめ、菜箸を鍋から上げていた。ぼこぼこと泡が弾ける熱湯の中では、白い麺が踊っている。熱気を頬に当てつつも、そこには未だに白い粉がこびり付いていた。
 そんな風に波留がきょとんとした表情を浮かべていたのは、数秒のみである。そのうちに彼は視線を上に向けた。考え込むような表情を見せる。
「――…って言われてもなあ…――京風出汁を取ろうにも、もう材料買い揃えてる時間ないし」
 しばしの沈黙の後。波留の口から、そんな呟きが漏れてきた。
 ――ここは埠頭であり、早朝から利用出来るようなスーパーは遠い。
 京風のうどんつゆを作るためには、薄口醤油が必須である。九州では薄口醤油は有り触れた調味料だった。そのため、埠頭内に存在する近場のコンビニにも薄口醤油は置いているかもしれない。しかし、他の材料たる昆布までは、コンビニの品揃えとしては流石に厳しいだろう――。
 以上のように、波留は何の衒いもなく、本当に考え込んでいた。先程久島とうどんのつゆについて喧嘩紛いのやり取りを行ったにせよ、自身の心情にしこりは残っていないようだった。
 それを久島も窺い知る事が出来ていた。だから彼は安心する。――多少余裕がない暴言を叩かれても、そう簡単に本気で怒るような人間ではない。それこそ使えない組織だか上司の無茶な要求だかも、滑らかに交わしてゆくのが彼だ――久島は、今日から再び2歳差をキープする事となった年下の親友に対して、そんな評価を下していた。
 ――潮流のように雄大な心――だかは知らないが。久島は更に親友の趣味兼特技になぞらえた表現を用いてみたが、半ばでそれを取り止めてもみる。そんな大袈裟な話かと思ったからだった。
「――では、仕方ない」
 久島は俯いた。正面の波留から顔を隠し、呟くように言う。その声色は平坦だった。流しに手をつき、そこを見やる。そんな久島の態度に、波留は首を傾げた。
 流しには調味料の類が並んだままとなっている。久島の手がその合間をすり抜けた。その向こうに置かれたままとなっていた、雪平鍋の柄を掴む。
 そして彼は顔を上げた。その勢いのまま鍋を持ち上げ、顔の前に掲げた。その表情は明るく、笑みを湛えている。
「妥協してやるから、旨い関東風を頼む」
 久島は波留にそう告げた。何処か悪戯っぽい微笑みを浮かべたまま、鍋を波留へと差し向ける。
 波留はその鍋へと視線を落とした。すっと眼を細め、微笑む。その口許がにやりと笑った。
「言われなくても。お前の偏見、崩してやるよ」
 彼はそう返答を寄越しつつ、右手を伸ばす。その鍋の柄をやんわりと握った。先に柄を握っていた久島の手の上から、被せるように掴む。
 熱湯やそこで茹でたうどんと戯れ続けていた波留の手は熱を持っていて、平熱を保つ久島の手に徐々に染み込んでくる。その指先には微かに粉っぽさも感じられた。
 その掌こそがこの親友を表しているような気がして、久島は心から微笑んでいた。
 傍らの洋子は、そんなふたりを何処か眩しそうに目を細めて見ている。そしてカーテンの向こうからは、朝日が本格的に射し込んで来ていた。
  
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