以上のように久島から「常識」を振りかざされた波留だったが、彼は沈黙し続けていた。その表情はきょとんとしていて、眼を瞬かせて口を噤んでいる。何が誤りだと指摘されているのか、彼としては全く理解出来ていないらしい。
 久島の手を視線で追っても、そこにあるのは何の変哲もない醤油である。何も間違っているつもりは、彼にはなかった。うどんのつゆと言えば、それをベースとして作るものであって――。
 そこまで考えを巡らせた時点で、波留の脳裏に何かが閃く。半ば口を開けた。
「…あ、もしかして…――」
 波留は言い掛けたまま、口を閉ざす。そこで、気付いたようにちらりと手元を見た。そこに持ったままだったうどん玉に視線が落ちる。我に返ったように、彼はそれを寸胴鍋の中へと投入した。
「それ、所謂京風出汁って奴?そうか…久島って京都出身だもんな」
 沸騰したお湯に煮込まれてゆくうどんに視線を送りつつ、彼は言う。納得し、頷いた。
 一般に「うどん」との名称で纏めてしまっても、日本の各地には様々な種類のうどんが存在する。それは使われる麺の差異もあるが、つゆの成分でも大きく異なるものだった。そしてつゆのベースには、日本を二分する規模で違いが存在するものであり――。
 沈黙している久島は、眉間に人差し指を当てて口を固く結んでいる。それは彼が時折示すポーズである。大抵は考え込んでいる際に取られるものだが、その眉間に刻まれた皺が深く本数が多い程に思い悩んでいるのが常だった。
 そのポーズを保ったまま、久島は口許を歪ませた。硬く瞼を伏せ、低く声を発する。
「――…念のために訊くが…君は、どんなうどんつゆを作るつもりだったんだ?」
 まるで押し殺すような声が泡が弾ける音に紛れて聴こえてきて、波留は寸胴鍋から顔を上げた。菜箸でうどんの様子を確認しつつも、彼は視線を中空に向ける。問われた該当レシピを脳内再生し、それを読み上げようとした。
「えーと、醤油ベースに鰹出汁を合わせていって…」
「――我々に、あのどす黒い関東風の出汁を飲ませる気か!?」
 しかし波留の説明は冒頭部分で既に中断するに至っていた。突然、久島の態度が豹変したからだ。
 静かな雰囲気を漂わせていたはずの久島は、ここで右手を大きく振り、声を荒げた。その勢いのままに続ける。
「塩分過多で身体に悪いだろうが!」
 これには、波留は呆気に取られていた。眼を丸くし、久島の顔をぼんやりと眺めてしまう。
 しかしその顔が徐々に真面目腐ったものへと変化して行った。眉を寄せ、顔を顰める。久島の台詞の解釈を考えてゆくに従い、あまり良い内容とは思えなかったからである。
 そして久島が用いたようなこの批判は、彼が好み慣れ親しんだ類のうどんつゆがたまに受ける誤解だった。だから彼としては聴き慣れている代物である。とは言え、謂われない誤解を受け続けては、良い気分ではない。
「…京風って味が薄過ぎるだろ、どう考えても。つゆの色からして味付いてるのかって感じで。料理って、眼でも味わうものだぞ?」
 果たして、波留は久島から視線を逸らし、ぼそぼそと呟くように言っていた。そして、それこそは「京風うどんつゆ」が一般人から受ける誤解だった。波留はその論法を、わざわざここで用いた。つまりは、そこには多少の厭味が含まれている。
 快活で明快な普段の彼はあまり用いない論法ではあるが、彼はそれを先に使われた側である。同様の手法で正面から打ち返してもバチは当たらないだろうと、彼は思ったのだった。
 そして、その効果は覿面だった。
 波留に相対している久島の顔が判り易く歪んでゆく。口の奥で歯を噛み締めていた。明らかに気分を害していると第三者からも判るような表情を浮かべている。
 その口から、端的な台詞が漏れる。低く押し殺したような声色で、彼は言った。
「…お前は関西の人間に、喧嘩を売っているのか」
「…そんなお前こそ、関東出身の人間に喧嘩売ってないか?」
 波留もまた即答していた。彼の方も、久島に匹敵するような表情を無意識のうちに選択するに至っていた。台詞の内容を、自身の顔でも雄弁に物語っている。
 それ以降、しばしふたりは台詞を交わさない。只、不快そうな視線を合わせたままだった。カーテン越しに感じられる明るい朝日のイメージとは反対に、室内の沈黙は重い。
 彼らの傍らでは、寸胴がぐつぐつと音を立てている。
  
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