久島がそう結論付けた頃には、傍らの寸胴鍋からは気泡が上がり続けていた。
 金属の鍋が軽く振動しており、輻射熱が辺りにまとわりつく。弾けた泡が飛び散り鍋の表面に付着した水滴は、軽い音を立ててすぐに蒸発した。どうやら充分に沸騰しているらしかった。
「――では、私がつゆを作ってやるから、君はうどんを茹でるといい」
 そんな鍋をちらりと見やりつつ、久島はそう告げた。流しの下にある雪平鍋を手に取る。
 幸いにもこの食堂において、IH調理器が2機用意され隣り合っている。その片方を用いて、うどんを茹でる間に合わせるつゆを作ってしまおうと、彼は申し出たのだった。
 あのメモを見るに、手打ちうどんは茹でるにも手間がかかる。その手順を時間差で踏んでいるうちに美味しい時期を逸してしまいかねないし、少なくはない人数に同時に振る舞うのも難しくなるだろう。第三者だったはずの久島には、そう思えたのだ。
「そりゃどうも」
 波留は苦笑気味に笑い、頷いた。同僚からのその申し出を受ける事としたらしい。
 了承を得た久島は、羽織っていた白衣を脱いだ。テーブル備え付けの椅子に無造作に掛ける。それから袖口のボタンを外し、袖を何度か折り曲げて捲り上げた。きちんと首許に結ばれていたネクタイを胸ポケットに避け、ピンで固定する。
 流石にエプロンまでは持ち合わせていない。しかし、うどんを打って粉まみれになっている波留はともかくとして、久島はつゆを作るだけなのだ。久島自身、服を汚すような料理になるとは思えなかった。
「つゆの材料は?」
「冷蔵庫に買い揃えておいた」
 その調理について問えば、すぐに答えが返ってくる。それによると、波留は用意周到に全てを準備しているらしかった。
「どれ…」
 久島は呟きつつ冷蔵庫の扉を開き、その奥を覗く。流石に冷蔵庫は普通に職員達に利用されてきたはずなのだが、それでも疑問には思われなかったらしい。その答えは、内部を一目見た瞬間に把握出来た。
 冷蔵庫のサイドポケットには、記名済みのペットボトルなどが何本か刺さっている。それらは職員の私物であり、冷蔵庫に保管しておいて後々飲むためのものだった。
 更に、中央の棚にスーパーの袋が大きく鎮座している。そのスーパーのロゴの上から無造作にマジックで波留真理と記名されていた。そしてその袋の口からは、瓶のキャップなどが覗いている。見るからに私物であるし、空き時間に近所のスーパーで買い出しでもしてきたのかと思われるような状態だった。
 確かに料理の足しにされるにせよそれはあくまでも自宅であり、間違ってもこの食堂で始められるものではない。誰もがそう思うような状態だった。だから冷蔵庫を利用する他の職員からもスルーされていたに違いない――久島はそう判断した。
 ともかく彼はそのレジ袋の持ち手を持つ。きっちりと口を結び閉めているその合間に手を通し、握って冷蔵庫から引っ張り出した。
 色々と入っているらしく、結構重い。久島は流しの上にそれを置き、その結ばれた口を解いてゆく。蝶結びにはなっていたために、片方を引けば簡単に解く事が出来た。
 久島はその口を大きく開いて手を突っ込み、中身を掴んでどんどんと台上へと並べてゆく。冷蔵庫の冷気を吸って良く冷えた容器を掌に感じつつも着々と作業を続けてゆくのだが、やがてその手が止まった。
「………おい」
 俯き加減に、久島は口を開く。傍らに用意した熱湯入りの鍋に向かい、今正にうどんを一玉投入しようとしている波留に声を掛けた。
「揃ってないぞ」
「え?」
 波留の口から怪訝そうな声が漏れた。思わず手が止まる。――そんなはずはない。彼は心中でそう反駁する。表情にもその戸惑いを浮かべつつ、隣を見る。流しに立つ久島を眺めた。
「ちゃんと全部買ってきてるはずだけどな…」
 隣の久島に聴かせると言うより、独り言のように波留は言う。手にうどんの玉を握ったまま、流しに俯いている久島と共に視界に入る、そこに並んでいるレジ袋の中身達を見やった。その物品を、脳内に備わっている買い物メモと照らし合わせる。
 しかし、買い忘れはないはずだった。少なくとも彼の記憶に頼る限り、必要なものは全て買い揃えて出勤していた。或いはレシピに掲載されている材料をメモに書き起こし損ねたのかと考えたが、その記憶漏れもないと彼は自身の記憶力を信じていた。
 そうやって波留が首を捻っていると、久島が顔を上げてくる。その視線を合わせて来た。半ば睨み付けるような代物である。その結ばれていた口許が動き、低い声で波留に問い掛けた。
「――昆布はどうした」
「……え?」
 その言葉には、波留は短い声を上げるばかりだった。意外そうな表情を浮かべる。傍らの鍋の水面がぼこぼこ泡を立てるに任せ、久島を見ていた。
 波留からの要領を得ない反応に、久島の眉が寄る。――料理に詳しいと思っていたが、実は何も知らないのか。そう言いたげな顔を見せた。
 久島は伏し目がちに首を横に振る。肩を竦めた後に、片手で流しの上の調味料類を指し示した。そして溜息混じりに言った。
「醤油も――これじゃないだろうが」
 何故それが判っていない。常識だろうが――久島はそんな感情を言外に示していた。
 その手に指し示された位置には、醤油の1Lボトルが置かれている。透明なプラスチック製のボトルに、内容物の黒く濃い液体が充填されている、至って普通の醤油だった。
  
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