切られた手打ちの麺に打ち粉を振り、更に両手で包み込み、振り解く。余計な粉を落としつつも麺を丸い塊へと整えて行った。
 親友の作業をよそに、久島は鍋を見やっている。火力が弱くなりがちなIH調理器だが、加熱に酷く時間を浪費する訳でもない。程なくコンロ同様に張られた水の表面に泡が浮き始めていた。水面付近には陽炎のように水蒸気がまとわりつく。
 そんな光景を眺めつつ、久島は口を開いた。どうでもいい事ではあるが、一応は抱いた疑問をそのまま口に出す。
「――しかし、海上観測の時の方が暇だろうに。持ち込むにせよ材料は小麦粉程度だろう?折角ならば船上で手打ちうどんを出せば、皆の喜びもひとしおではないのか?」
 彼らの業務上、外観測船を出しての海洋観測も珍しくはない。その日程は観測内容に左右され、一定ではない。しかし人工島建設予定海域に一度船を出したならば、陸地に1ヶ月戻って来られない事態はざらだった。
 それでも1ヶ月程度では、寄稿しての補給などはあり得ない。だから出港時に積み込んだ物資で喰い繋ぐ事になる。無論、船上にて生活するための準備は万端なのだが、それでも陸地と較べるとどうしても制限されるものは出てくる。嗜好品などは真っ先に切り捨てられ、食事においてもバリエーションは確保されていなかった。船上での食事とは、必要十分な栄養素の摂取が第一目標だった。
 そのような潤いに欠けた食生活を送る船上の職員に、その手打ちうどんを振る舞えば、相当に感謝される事だろう。
 特にこの波留と言う同僚は、普段の観測船上においても暇な時間には釣り糸を垂らしている日がある。そしてその釣果を簡単な料理の形としている食卓も、たまに来るのだ。
 彼にとっての釣りと料理は気晴らしがてらの暇潰しなのだろうから、果たして前々から準備しておくような料理までもを船上でやりたいものかは謎ではある。しかし、こうして陸地で手打ちうどんをやらかしているのだから、それを船上でやらない理由はないのではないか――久島はそう感じたのだ。
 自らの作業が一段落したのだろう。波留は粉まみれの両手をうどん打ちの台の上で振り払った。そして両手を用意してある手拭いで軽く湿らせて拭く。
 それから彼は久島の方を振り返った。打ち粉で軽く白く煙っているエプロンの青に、両手を絡ませた。振り向きつつ、エプロンの全面で両手を更に拭いている。
「――それも考えたんだけどさ。でも、大きな問題があるんだ」
 波留は苦笑を浮かべて、久島にそう言った。
「…何だ?」
 久島はそれに怪訝な表情を浮かべる。どうやら彼が抱いていた疑問は、既に波留が通過していた場所だったらしい。基本的に料理に疎い人間が先走ったか、釈迦に説法と言う奴だったか――この件については彼はそう悟ったのだが、ではどんな問題が横たわっていたのだろう。彼としてはそこは知りたい気分であり、短く問いかけていた。
 波留は微笑みを絶やさないまま、かぶりを振った。青の頭巾の中で纏められた髪が軽く揺れる。しかし彼にはまだそれを解放するつもりはないらしい。
 そのまま俯き、エプロンを見やる。前面に存在するポケットに手を突っ込んだ。手を拭いたりして皺が寄っているそこをこじ開ける格好になりつつも、口を開いた。
「うどんって、茹でた後に水でシメて、そしてまた茹で直したりするから、水が大量に必要でさ…海上だと濾過装置使って水用意するから、ちょっと厳しくて」
 そう語りつつ、波留はエプロンのポケットから手を引き抜いた。そこに掴み取られていたのは、折り畳まれたメモだった。エプロンごと手拭きに使われた煽りを食い、そのメモは若干皺が寄り湿り気を帯びていた。彼はそれを指先で摘み、用心深く広げてゆく。折り目がついたまま開かれたそのメモを、久島に差し出した。
 久島は頷きそれを受け取る。水に濡れた部分にインクが染み込んでいるが、書かれている文字は努力せずとも判読可能だった。彼はその内容を読み進めるべく、メモに顔を近付ける。
 紛れもない波留の筆跡で書かれているそのメモに記載されていたのは、この手打ちうどんのレシピだった。
 小麦粉の量に対して混ぜ合わせる塩水の割合から始まり、うどんを打つ手順が纏められていた。それぞれの段階に拠り注意すべき点も簡潔な内容でメモされている。
 久島はそのメモを視線で追う。料理に興味がない彼には多少目が滑る内容なのだが、このメモから示唆されるに、波留はこのうどんを間違っても目分量や勘で作ろうとはしていないと理解した。
 「手打ちうどん」についてネットなり書籍なりで調べ上げ、その調理法を自分のものとしている様子が見受けられた。そこが波留らしいと感じる。
 そのメモの最後には、完成したうどんの茹で方も書かれていた。打って終わりではなく、その仕上げ方まで忘れていない。そしてその内容に、久島は軽く目を見張った。素人目には記載された水のリットル数が、どうも理解の範疇を越えていた。
「…昨今の世界的な水不足に逆行する食物かこれは」
 久島はそんな台詞を発し、長い沈黙を破っていた。彼は眉を寄せ、真顔である。
 その言葉に波留は苦笑する。その表現は多少穿った観点からの代物ではあるが、決して間違ってはいないと思ったからだった。
 手打ちうどんを真面目に作ろうとすれば、船上では何度濾過装置を起動させなければならないのか。そしてその度に限られた燃料が浪費される。手打ちうどんとは、果たしてその浪費に似合った成果だろうか――?と、改めて問うまでもない。
 
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