「――で、これからどうするんだ」 波留が何をしていたのか――先に久島が抱いたその疑問は解消された。そこから生まれる新たな疑問やその他言いたい事は言い切った。それで、彼の気が済んだのだろう。改まった表情で、今後を問う。 「そうだなあ…――」 この時点で波留もテーブルに向かっていた。丸棒で伸ばす過程だった生地を見やる。中座した時間は数分間のみであり、打ち粉を振られた表面は未だ柔らかさを保っていた。 食堂に設置された丸い壁掛け時計が指し示す時刻は、そろそろ夜明けの頃だった。実際に窓を覆う閉じられたブラインドからぼんやりと陽射しが透けて見え始めている。 「このまま切って麺作るとして、そのままつゆも作って麺茹でて皆の朝食にしてやろうかな」 波留はそう考えを纏めていた。残っている職員と、これから出社してくる職員の顔が彼の脳裏に浮かんでくる。彼の目の前に広がりつつある生地を見るに、それだけの人数の腹を満たすだけのうどんを準備する事が可能だった。むしろ多少余るかもしれないが、それはまた冷蔵庫に保存するなり自分で持ち帰ってもいい。希望する職員が居るなら、譲っても良いと思った。 「それもいいかもしれんな」 その意見には久島も頷き、同意していた。軽食足り得る麺類ならば、疲れ切った人間にも今から働く人間にも適当な食事だろうと思ったからだ。両者に振る舞うためにも、この早朝から準備すれば丁度良い時間になるだろう。 同意を得られた波留は久島を見やり、照れ笑いを浮かべた。そして本格的にテーブルに向かい合う。手元の丸棒を転がし、下敷きにしている生地を巻きつけてゆく。それを押し伸ばし、また別の方向から巻きつけて同様の作業を行っていた。 これを繰り返して徐々に生地を均等に薄くしてゆく。そして丁度いい厚みになった所で折り畳む。それを包丁で適当な太さにするべく切ってゆくのが、手打ちうどんのセオリーである。波留は戸惑いもなく、その作業を実行して行った。 一応の会話が終了したにも拘らず、久島はこの食堂から退出しない。無言でテーブルに向かっている親友の背中を、腕を組んで眺めていた。 ふと思い出したように、久島は視線を横に向けた。傍らの棚を見やる。まばらに詰まっているその中身を視線で薙いだ。 そして彼は腕を解き、棚へと足を進める。そこに並ぶコップ類から自分の私物を取り出した。ティーバッグを開け、コップの中に入れ、そこにポットのお湯を注ぎ、皿で蓋をしてしばし待つ。 彼は親友との出会いですっかり当初の目的を忘れており、それをようやく思い出したのだった。暇に任せて、とりあえずそれを実行した事になる。 湯に醸された紅茶の香りが彼の元に漂って来た。良い香りではあるが、所詮はティーバッグである。本物の茶葉には敵わないと彼は思う。それでもあの親友ならば、ティーバッグでも充分に旨い紅茶を淹れてくれるはずだった。しかし今それを頼むには、どうも多忙であるらしい――それがたとえ業務外の趣味めいた行為であったにせよ。 蒸らしの時間を経て、久島はその皿を外した。抽出を終えたバッグを上げ、分別マークが記載されているゴミ箱へと直接放り込む。それから皿とコップとを持ち上げ、香りを嗅いでから一口含んだ。 やはり、それなりの味にしかなっていなかった。紅茶を好む以上は彼自身でも「旨い淹れ方」と言う奴は追及しているはずなのだが、どうやっても親友に上を行かれてしまう。その現実を、彼は今日もまた目の当たりにしていた。 自己採点するならば70点程度の紅茶を、久島は口中で転がしている。湯気を顎に当てつつふと正面に視線を向けると、黒髪の友人が俯き加減に丸棒を操っていた。 彼は器用に生地を持ち上げ、折り畳んでいる。丹念に打ち粉が振られ綺麗に伸ばされたそれは、折り目が重ならないように蛇腹状になっていた。 ある程度折り畳んだ時点で、彼は丸棒を抜く。傍らの包丁を手に取り、生地の端に手を添えた。真剣な顔で包丁を当てる。そのまま躊躇わず、包丁を引いた。切られた麺がぱらぱらと解ける。彼は軽く視線を向けたが、すぐに次の地点へと包丁を進めてゆく。 傍から見ている分には素人の手さばきには見えないと久島は思う。――それは言い過ぎかもしれないが、果たして初めて打ったのだろうか。料理に関しては何でもそつなくこなす部分があるのだから、初めてでもこの程度は出来てしまうのかもしれない。遠目からは出来てゆく麺の太さにばらつきが見受けられない中、久島はそんな事を思っていた。 そんな年上の友人をよそに、波留は生地の端から端まで包丁で切ってゆく。淡々とした作業だが、彼はそれに集中していた。本来ならば麺切り機を用いるべき所を、普通の包丁で行っているのである。気合いを入れて切らなければ、途端に麺の太さが怪しくなる――そう思ったからだった。 そんな彼の背中に、冷静な声が届いた。 「――その麺を茹でる鍋はあるのか?」 「流しの下に準備してる」 問いに振り返らず、波留は答えていた。手元の作業にも影響はなく、一切手を止めていない。 その答えを得た久島は、テーブルにカップと皿とを下ろしていた。カップの中の液体は既に飲み干しており、縁に僅かな滴が残っているのみだった。 白衣姿の彼は、身体を屈めて流しの元へとひざまずく。無言で、そこにある両開きの扉を掴み、開けた。あまり使われていなかったらしいその扉は、微かに軋んだ音を立てる。奥まった内部には影が射し、彼はそこに顔を突っ込んでいた。 そして僅かな沈黙の後、溜息が漏れていた。次いで、呟き声が聞こえてくる。 「…本当だ。誰も気付かんかったのか…――」 流しの下に顔を突っ込んだ久島の眼前には、大きな寸胴鍋と雪平鍋が鎮座していた。どうやら多少は使い込まれているらしく、多少のへこみや傷が鍋の表面に見受けられた。その金属が、室内から差し込む明かりを僅かに弾く。久島が寸胴の持ち手に手を伸ばすと、覆うように被せれられている大きな蓋が、ずれる音を立てた。 こんなにも大きな鍋が置いてあったのである。しかも波留の口振りからは、昨日から準備されていたらしい。この扉を開けたら誰だって気付き疑問に思っただろう。だが、それを実行した者は誰も居ないらしい。 しかし、気付いていなかったのは久島も同様である。他者を謗る資格など彼にはなかった。 彼は溜息を繰り返す。両手で鍋の持ち手を掴み、落とさないように持ち上げつつ自らも身体を起こす。 そのまま流しに持っていき、蛇口を捻った。ざあっと音を立てるまでの勢いを保ち、寸胴に流し込んでゆく。軽く水を溜め、鍋の内部を濯いで流す。そして再び水を流し込み、今度はある程度の水位を保つまでに注ぎ入れた。 蛇口を止める。そこまで水が溜まると流石に持ち上げた時に重い。彼は腕に力を込めた。IH調理器の上に置く。そしてスイッチを押し、点火した。 果たしてこれは寸胴にお湯を沸かす火力は保たれるような機種なのか、久島には判らなかった。しかし彼はともかく、その鍋にお湯を沸かそうとした。そうしなければ、折角の麺をゆがく事が出来ないからだ。 点火した直後では、寸胴の水面に変化は見られない。彼はふと視線を背後へと向ける。波留が繰り出す包丁は、生地の端から端までを切り揃えていた。 |