――うどんとは、日本古来から伝わる麺類のひとつである。小麦粉に塩水を加えて混ぜ合わせて捏ねて生地とし、その生地を伸ばして包丁で切り揃えてゆく製法が一般的である。
 それなりの手間は掛かり力仕事ではあるが、製法自体は然程難しい代物ではない。無論、どのような料理においても完璧を期すならば、一般家庭での料理には限界がある。しかし麺の太さが不揃いだろうが途中で切れようが、味には関係ない部類の不具合を無視してしまえば充分に楽しめるだろう――。
 その程度の知識は一般常識であり容易く思い浮かぶイメージの範疇である。久島もそれを理解はした。特に波留と言う青年は普段から料理を嗜む人間である。手打ちうどんに挑戦していたとしても、意外ではなかった。
 久島が半ば咎めているのは、別の事である。彼はそれを口に出した。
「――私が訊きたいのはだ。何故ここでうどんを打っている」
 ここは「食堂」と言う名目であり、ある程度の調理器具は揃っている。長テーブルは広く、やろうと思えばうどんは打てるだろう。
 しかしそれを実行されるとなると、話は別だった。何らかのイベントの準備ならばともかく、大きなプロジェクトを抱える独立行政法人の事務所で、普通こんな事はしないだろう。波留の「普通」は、たまに突拍子もない方向にすっ飛んでいく事を、この数年来の付き合いから久島は良く知っていた。
「データ演算のための待ち時間って意外に暇だからさ。うどん打ちってそんなに時間掛からないし、一気にやるものでもないし。1時間程度空いても、仮眠も摂れないしさ」
 応える波留に全く悪びれた様子はない。彼にとってこの行為は、暇な時間を実利的に潰したに過ぎないらしい。
 彼の視線の先には、テーブルの上に置かれた大きな板に伸ばされた白い生地がある。満遍なく打ち粉が振られ、丸棒で伸ばされている最中だった。
「昨日混ぜ合わせて捏ねて踏んで寝かせておいたのを、今伸ばしてた所なんだ」
「…昨日から仕込んでたのか…」
 久島は呆れたような声を上げる。昨日時点で久島はそれに、全く気付いていなかった。他の職員達は気付いていたのだろうかと考える。
 一般的に知られている打ち方のように叩き付けたりしていれば、その音を聞き付ける人間も居たかもしれない。が、ここは埠頭である。大型車輌の往来も多い。周辺が騒がしい時間帯にやられていては、その音も紛れてしまっていただろう。
 もしかしたら波留はそれを見越して、当初から他の職員からは隠れて打っていたのかもしれない。妙な部分で用意周到な人間であると、久島は自らの友人を理解していた。
 夜は肌寒くなってきているこの季節ならば、捏ねて球状にした種は流しの下などの冷暗所に一晩寝かせておけば、痛む事無く熟成は可能だった。そして普段ならば何も使用されていないその扉を開けるような物好きは居ない。そもそもここで「料理」に挑戦するなどと言う考え自体、波留以外の誰にも到達出来ないと思われた。無駄に行動力がある波留に半ば呆れつつも、久島はそのように推測を進めていた。
 ここでふと、久島は気付いたような顔になる。顎に手を当て、考え込むような仕草を見せた。淡々とした述懐が、口から漏れる。
「――となると、あれか」
「…何だ?」
 何かを言い掛けた同僚に、波留は促した。その久島は彼に、ちらりと視線を向けた。何気ない表情で話を振る。
「うどんって、捏ね始めは台に叩きつけたりするんだろ?」
「まあ…粉を馴染ませたりその中から空気抜いたりしなきゃいけないから、どうしてもそうなっちゃうよな」
 打ち粉が付着したままの右手を頬に当て、波留は昨日から行ってきた手順を脳内で反芻させ、答えた。念には念を入れ、空き時間の許す限り打ち続けた記憶が彼の中にある。そして一晩寝かせて今朝から次の工程へ進んでいたのだ。
「そして、上に乗って体重掛けて足で踏むものなのだろう?」
 久島からの問いは更に続いてきた。その内容に、波留は久島を見た。――それこそが自分が先程まで行っていた「次の工程」であり、気に掛かっているのはそこかと思う。
 だから波留は釈明を加える事とした。軽く微笑み、片手でテーブル上の生地を指し示しつつ、言う。
「…勿論、生地をビニールに包んだ上から裸足で踏んでたから、汚くはないぞ。安心しろよ」
 普通の人間が「手打ちうどん」について引っ掛かりを覚えるのはその辺りだろうと、波留は当たりをつけたのだった。手打ちの生地を足で踏みつけて伸ばす作業とは、映像としてはあまり綺麗には見えないものだろうから。
「そんな事を私は咎めてはいない。料理に疎い私とて、手打ちうどんとはそういうものだと理解している」
 しかし波留からの回答に、久島の眉が寄る。何を言い出すのやら、そこまで料理を知らないと馬鹿にしているのか――そう言わんばかりの表情を浮かべ、彼は淡々と受け流していた。
「――じゃあ、何だよ」
 波留は怪訝そうに訊いた。――手打ち時の足踏みが気になったのでなければ、久島の中では一体何が問題だったのだろう。彼はそう、疑問に思った。
 意思の疎通が出来ていないらしい波留の顔を、久島はじっと見る。その視線が中空でかち合った。
 不意に久島の腕が胸の前に上がる。身振りを加えつつ、彼は波留に強い口調で質問した。
「――…君は、色々と腹が立つ事をその種に叩き付けたのか?」
「……は?」
 その問いに、波留は両眼と口とを丸くした。思わず顔を突き出し、久島を眺めやる。それこそ何を言い出されたのか、彼には理解出来ない。
 彼の前で、久島は右手を強く握り締めている。そこに表れた拳には力が込められている様子が、傍目からも良く判った。眉間に刻まれた皺が更に深くなる。唇が動き、口調はそのままに続けた。
「あの上司の無茶な要求とか、あの組織の使えなさとかをな!――と言うか、そんな息抜きになるような事をしていたのなら、私も遠慮なく呼んでくれて良かったんだ。思う存分手を貸してやったものを…!」
 しまいには久島は波留の肩を掴んでいる。そこを揺さぶる勢いで、力説していた。その表情は真剣そのものである。
 久島の言動を目の当たりにして、波留はうんざりしたような顔になった。向かい合った体勢だったが、波留からは顔を背けて視線を逸らす。横を向いたまま、ぼやくような口調で呟いていた。
「…久島………普段どれだけ、日々の仕事に荒んでるんだよ…」
 彼らが抱えている仕事とは、確かに激務である。しかしそれはやり甲斐がある仕事であり、年齢ではまだまだ「若手」のカテゴリに所属する彼らに、ここまで大きなプロジェクトを任せているのである。その自負と満足がなければ、職員の大半が逃げ出しているような超過勤務だった。
 久島も波留も、ここから逃げ出すには至っていない。少なくとも現状においては、自負と満足とが仕事のきつさを大きく上回っているからだ。だからと言って今の仕事の全てに満足出来ている訳も無く、久島は今それを心底から表した格好になっている。
 波留も久島が抱いているその手の不満は、以前から理解はしていた。互いに感情ある人間である以上、反りが合わない相手と言うのはどうしても存在してしまう。それでも関係を築いていかなければならないのが、社会人の仕事の一部だった。
 波留はその手の相手には一歩距離を取り、交わすようにしている。久島も同様の態度を取っているはずなのだが、それでも中に溜め込むものもあるらしいとは、酒の席でぶちまけられる愚痴などから把握していた。
 だから「あの上司」だの「あの組織」だのと挙げられた時点で、波留には充分にそれらの特定が可能だった。そして、個人的にはその評価には同意したい部分も多い。しかし波留にとっては、それと今回のうどん打ちとは、全くの別問題である。
「――そんな、怨念篭ってるようなうどんを他人に食べさせるの、俺は厭だぞ」
 一旦の激情から落ち着いたらしい久島から肩を解かれた後、波留はそうぼやいていた。両肩を竦め、諭すような口調になっている。料理を鬱憤晴らしに使ってどうすると、彼は思う。
 そんな波留を見やり、久島は首を傾げる。波留のぼやきが素直に受け取れないようである。視線を上に向け、多少思惟に浸った後に、答えた。
「こちらの心証はどうあれ、力一杯混ねるんだ。表れる結果は変わらんだろうに」
「料理って、作る人間の気構えこそが重要だと思うがなあ…」
 久島の答えを受けて、首を捻りながら波留は言う。それこそ実験データの演算じゃあるまいにと思う。自分の方こそ、相手の考え方が理解出来ない。
 どうも、その辺の意識の磨り合わせが親友同士と言えども上手く行かないらしい。料理への拘りの差が、彼らの間には如何しも難く横たわっている様子だった。
 
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