こんな早朝では外部からの来客もなければ、身内たる職員と顔を合わせる機会もそうはないはずである。だから、久島の髪は無造作に手櫛で掻き分けて均しつけた程度の手入れだった。それでも、彼の所属を概念的に表す白衣はちゃんと羽織っている。 使用済みと判るように、ベッドの布団は彼に折り畳まれていた。ここはホテルではないために、それらはクリーニングを待たずに同僚に再利用されるのが常ではある。しかし身に付いたマナーとはなかなか崩せないものだった。 彼は利用終了した仮眠室の扉を閉め、扉に付属している下げ札でそれを表す。そして白衣のポケットに突っ込んだ携帯をその中で掴みつつ、足早に廊下を進み始めた。 枝分かれした廊下の一方にはオフィスが存在している。そこでは徹夜覚悟の研究者達がパソコンに向かって黙々と仕事をしているのがこの職場の日常である。この明け方においても、廊下に漏れてきている灯りから、その推測が可能だった。 しかし久島はそちらには向かわない。自分の仕事は一旦落ち着いており、現状ではやる作業が手元に揃っていないからである。朝を待ってデータの解析が終了しなければ彼は動けない。その隙を突いて仮眠を摂りにいったのが、昨晩の彼だった。 仕事がない現在の自分の存在は、オフィスでは他の人間の邪魔になるだろう。その配慮が彼にはあり、そのためにオフィスからは足が遠ざかる。彼は角を曲がってもう一方の廊下を突き進んでいた。その向こうにある食堂を目指す。 「食堂」とは呼称されているが、そこは誰かが料理を提供する部屋ではない。そこそこ広い部屋に長テーブルと椅子が設置され、各自が食事を持ち込んで食べるための部屋だった。それでも部屋の傍らにはIH調理器や流しが存在している。職員が色々と持ち寄り保存出来る規模の冷蔵庫も設置されていた。食器類やいくらかの鍋が揃った棚も壁際にある。 久島がこの食堂を目指しているのは、目覚めの紅茶を淹れるためである。 電理研職員のほぼ全員がこの職場で寝泊まりしている現状なのだから、各人は出来る限り過ごし易い環境を自力で整えようとしている。久島の場合、それが紅茶の茶葉だった。 彼は何種類かの缶入りの茶葉を食堂の棚に揃えておいて、気分に応じて飲み分けて楽しんでいた。研究職の職場らしくコーヒー党が多数派を占める電理研において、彼のその拘りは特異であると言える。 彼は歩みを進め、食堂へと辿り着く。目覚めと1日の始まりに相応しいような、気分をリフレッシュ出来る紅茶を淹れるつもりだった。しかし扉を視認出来る距離に至った時点で、灯りが漏れてきている事に気付いていた。 ――食堂も、誰かが利用しているらしい。久島はぼんやりとそう思い至る。 確かに、この職場には徹夜で頑張っている職員が居るのだ。その一部は仮眠を摂らないまでも、息抜きにコーヒーブレイクを楽しんでいてもおかしくはない。 ならば、せいぜいその邪魔にならないように紅茶を飲むとしよう――そう、微妙に方針を修正し、彼は食堂の扉の前に立った。数度軽くノックをし、返事を待たずにそのままノブを捻って扉を開く。 「――あれ、久島。もう起きる時間だったか?」 その時、室内から聞こえてきた声は若い青年のものだった。彼は長テーブルに向かって両手を突いた格好のまま、ノックして入室してきた人間へ向かって首を巡らせている。久島には背中を向け顔だけ振り返り、親しげな声を掛けてきた。 「波留」 久島は室内に年下の同僚の姿を認め、その名を呼んだ。彼も何らかの仕事を抱え、徹夜しているのだろうかと思う。人工島プロジェクトは多岐に渡っており、久島であっても些細な別件まではなかなか把握出来ないものだった。 「君は、まだ起きて――」 久島の口からは怪訝そうな台詞が続くが、それはすぐに途切れてしまう。言い掛けたまま彼は口を半ば開いたまま、その場に立ち尽くしていた。 そんな久島に、波留は首を捻る。不思議そうな視線を送りつつも、若干憮然とした表情を浮かべて言った。 「――何だよ。変な奴だな」 「…それは、こちらの台詞だと思うんだが?」 波留の言葉を受けても、久島の態度は変化を見せない。相手側の表情から自分は立ち直り、そんな台詞を返していた。入り口から更に一歩踏み込んだ。波留の様子を近くで眺める格好になり、彼の口から言葉が突いて出た。 「一体何をしている」 「何って――」 波留は微笑みを浮かべた。今度は身体を捻り、身体毎久島の方を向く。後ろ手に両手をテーブルに突き、寄りかかって身体を支えた。 その彼が纏っていたのは、研究者らしい白衣ではない。研究者らしからぬ逞しい体躯を覆っているのは黒いシャツやスラックスだった。濃い色が視覚的に身体を細く見せるからか、彼はその手の色合いの衣服を好んで着ている。彼がスーツの類を着る事態は、1年に1回あるかどうかだった。 それはいつもの事であり、いくら研究者には見えない服装だろうが久島も今更指摘しようとは思わない。彼が引っかかりを覚えているのは、波留は今日に限って、いつもの服装の上から前掛けエプロンを纏っていたからだった。 鍋類は揃っているし冷蔵庫も設置されているため、自前で食材を持ち込めばこの食堂でも簡単な料理は可能だろう。しかし、海の蒼を彷彿とさせる色合いで染め抜かれたそのエプロンの前面には、白い粉が付着している。それが下地の蒼と相まって独特の文様を見せていた。 波留の服装が普段と違っているのは、それだけではない。彼は社会人らしからぬ後ろ髪の長さなのだが、現在はその髪を纏め上げた上から蒼いバンダナを巻きつけて止めている。 そして波留の身体の陰になっているが、テーブルの上には何やら長い丸棒が転がっている。そして大きなまな板のような物体が、その棒の下に位置していた。テーブルには粉が入ったボウルが置いてあり、その周辺に零れている。 自らの背後を垣間見ようとしている久島の仕草に、波留は気付いた。苦笑を浮かべる。右手を挙げて鼻の頭を掻いた。その指先にも白い粉が吹いていて、触れた顔にそれが付着した。 「何って…――うどん打ち」 「………は?」 波留が発したその答えに、久島は咄嗟に反応出来なかった。 |