20世紀末に勃発した不幸な出来事の連鎖を発端とし、日本の首都機能は東京から福岡へと移されている。それに伴い、主要企業の多くが福岡へと移転して行った。良くも悪くも「縦割り行政」「お上主導」の意識が強い日本と言う風土では、それが実利的な選択だった。
 一方、この時点で既に人工島建設で賑わっていた新浜地区にも多数の企業が進出していた。そして福岡への遷都はその流れを変える材料にはなり得なかった。結果、奇跡的にも甚大な被害から復興しつつある繁栄の成果を、その2県で分け合いつつあるのが現在のこの国である。
 現状は前述の通りだが、政府機関である独立行政法人「電子産業理化学研究所」――略称電理研は、擁しているそもそもの歴史が浅い。
 次世代科学技術の開発を担うべく設立されたこの組織は、福岡が徐々に首都として機能し始めた頃よりその歴史を開始していた。現在所属する技術者は、他の行政法人や民間企業からの引き抜きである。彼らはそれぞれにある程度の成果を既に挙げている段階で国家により選別され招致された人々だった。
 電理研は民間企業ではなく独立行政法人であるために、運営方針は国から与えられる事になる。そして満を持して彼らに課せられた目標は、アジアの南海への人工島建設プロジェクトだった。
 無論、建設予定地が日本国外である以上、日本単独でのプロジェクトではない。彼らはASEAN諸国の国家企業やそれに類する組織と共同で計画立案に当たっていた。自他友に「理系エリート」として認められた人々に相応しい任務と言えるだろう。
 そう言う事情からか、電理研職員は多忙を極めている。建設予定地が南海で季節の概念がない事もあり、10月を迎え日本本国は少々肌寒くなろうが、現地には全く関係がない。更には現地及び協力組織間では数時間程度の時差も有しており、結果的に彼らは昼夜を問わない勤務体制を維持し続けていた。
 電理研所属の研究員である久島永一朗にもまた、その他の人間達と変わらず自宅に帰宅出来ない日々が続いていた。
 或いは帰宅出来るにせよ、それは着替えを取りに来ただけとかたまたま自宅に所有していた私的資料が使えそうな事態になったとか、そのレベルである。それでも帰宅したついでに自宅の寝床で2、3時間の仮眠を取れる日もあるのだから、まだマシなのかもしれない。
 研究職の仕事がデスクワークのみならば、彼らの生活はまだ楽だっただろう。しかし人工島建設と言う大命題を抱えてる以上、彼ら研究員は時には船上の人となる。平時の海にて船酔いするようなお話にならない体力の研究員は流石に所属していないのだが、波に揺られるだけでも多少は体力を消耗するものである。
 それだけに、陸上の住み慣れてしまったオフィスに滞在しているうちは、その仮眠室ですっかりリラックス出来るだけの神経の太さが、久島には身に付いてしまっていた。そして同様の神経を装備している人間が、ここの研究員の大半を占めている。
 国家機関の予算運用には、国民から注がれる視線が厳しくなる。そんな電理研に用意された仮眠用ベッドの状況は、芳しくはない。疲れ切った職員は、所謂煎餅布団めいた薄いマットレスにリネンの臭いがきつい掛け布団を羽織って眠る羽目になる。それでも定期的に業者によるクリーニングや掃除がなされている分、放ったらかしの自宅よりもマシな環境と自嘲する職員も居た。
 久島は、自宅をきちんと掃除しているタイプではある。しかし、多少の乱雑さには目を瞑るタイプでもあった。だから限られた時間を有効利用し、直場でもしっかりと仮眠を摂っている。今日の場合は幸いにも外も夜でカーテンの向こうは暗く、それが彼の眠りの助けとなっていた。
 博多埠頭に位置する電理研の事務所の周辺では、昼夜を問わずトラックを始めとした大型車両が行き来している。点在する倉庫からの資材搬出や、逆に接岸してくるフェリーへの貨物積み込みなどを行うためだった。
 逆に言うならば、その手の雑音は電理研入りして数ヶ月もすれば、既に耳慣れている。今更安眠妨害だのと騒ぐ事もない。
 ――そのはずだったのだが、今朝に限って久島は目を覚ましてしまっていた。
 ぼやけた視界が徐々に鮮明になってくると、建設されて数ヶ月のうちに汚れが付着し始めている白い天井を、彼は認識してゆく。気温が丁度いい季節のために空調は稼働していないのだが、流石に明け方は多少寒気を感じる季節である。起き抜けに肌寒さを感じ、彼は薄い布団を反射的に身体に絡ませた。
 そうやって動いた拍子に、彼は身体を横向きにしている。薄暗い視界に広がる布団の脇に、携帯電話が転がっているのを認めた。いつものように、眠りに就く前に枕元に置いておいたものである。仮眠中にも容赦なく連絡が来る事もあるし、起床時間をセットしたアラームとの役目も有していた。
 久島はもぞもぞと布団の中から右手を繰り出し、自らの携帯を掴む。画面を開き表示された時刻を確認するに、アラーム設定時間には未だ至っていない。かと言って二度寝するには寝坊の危険性を孕んでしまいそうな時間だった。
 そんな現状を把握し、久島は溜息をつく。今晩に限って体内時計の調子が悪いと内心毒付いてもいた。仮に後者に至ってしまえば、自分ばかりか他者が迷惑を蒙ってしまう。ならば、多少睡眠時間が少なかろうが起きておく他ないと思ったからだ。
 そうやって久島は今後の行動を決定した。若干抱えている眠気を払う意味も込め、彼は右手で目許を拭う。それから上体を起こし、仮眠ベッドから降りて室内灯のスイッチを押す。
 明るくなった仮眠室にて、彼は壁際のハンガーに脱ぎ揃えていた上着類の中から、まずはネクタイを引っ張り出した。すぐそこに設置されている壁掛け鏡に上体を映し込み、身支度を整え始める。
 
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