「何故、こんな――」
 ソウタの問いは途中で途切れる。この事実に衝撃を受けていたからだった。
 確かに霞でも食べて生きていそうな超然とした人物ではあった。そんなイメージを抱いていた事は否定しない。しかし、まさか本当に、それに近い食生活を送っていたとは――。
 波留はカップを傾けたまま、伏し目がちの表情で言う。
「僕が50年間眠り続けていた事は、もう御存知ですね」
「はい。――あ」
 ソウタは波留の言葉に頷き、そして数秒後に気付いた。その彼の変化に波留は軽く頭を下げた。カップを口許から離す。
「そうです。50年間眠っていたせいで、もう固形物を受け付けないんですよ。僕の身体は」
 その時、波留は少し寂しそうに笑っていた。
 50年間、全く能動的に動く事もなかった。そうなれば、使われない身体は必然的に弱ってゆくものだ。脚が動かず身体を支えられなくなり歩行不可能となってしまった一因もそこにあるのだろう。
 そして生命維持のための栄養は点滴類に頼っていたのだろうから、殆ど使われていなかった消化器官もすっかり弱っていてもおかしくはない。永い眠りから目覚めたとしても、それが全て回復するとは限らない。むしろ両脚のように、不具のままとなってしまう可能性が高いのかもしれない――ソウタはそう推測し、理解した。
「ですから、ミナモさんが色々と召し上がってらっしゃる様子を見るのは楽しいですよ。あんなに美味しそうなんですから」
「それって…どうなんですか?」
 衝撃から未だに立ち直れないソウタには、具体的に問う事は出来なかった。それでも波留は彼の言わんとしたい事を汲み取る。おそらく彼としては、この事実を告白した時点で何を問われるか、判っていたのだろう。
「彼女を特に羨ましいとは思いませんので、いいんじゃないでしょうか。これが羨ましくなると、大変だとは思いますが」
 確かに、身体が食事を受け付けないのに、他人の食事を羨ましく思うようになるのは、拷問だろう。しかし今の彼にとってそれはあくまでも他人事らしい。
「昔は僕も色々な物を食べていたはずなんですがねえ…もう、その味も、食感も、忘れてしまいました」
 しみじみとした台詞だった。その表情は笑いつつも、やはり少し寂しそうな印象を与えるものだった。
「ですから、ソウタ君には色々なお茶を淹れて頂いて、嬉しいですよ。今の僕にはそれ位の味しか楽しむ事が出来ませんから」
 そう言って波留はソウタに深く頭を下げていた。後ろで結ばれている白髪が首から肩に掛かっている。――俺は、本気で感謝されているのか。老人の態度に彼はそう感じ、戸惑う。だから、つい尋ねてしまう。
「――…他に食べられるものはないんですか?」
 この問いは余計なお世話と言うカテゴリに類する事を、ソウタは自覚していた。他に食べられるものがあるなら、そうしているだろうから。だから、台詞を発した後に少し後悔する。
 波留は微笑んだまま、頬に手を当てた。揃えられた指が頬の皺をなぞる。
「どうでしょう…目覚めた直後はそれこそ何も口に出来なくて、まだ点滴頼りだった訳ですが、今ではお茶やゼリー程度は口に出来ますし。多少は時間が解決してくれる部分もあるのかもしれません」
 にこやかな老人の口から発せられたのは、希望的観測かつ一般論だった。しかし、それも食物を口に入れる訓練を続けてこそだろうとソウタは思う。今の波留はそこまでやろうとしていない雰囲気だった。
 やはり、彼からは根本的に食べる事に対する興味が薄れているように感じられた。50年間の眠りが彼をそうしてしまったのだろうか。ソウタには信じ難い状況だった。食欲とは人間の根源的な欲望のはずなのに。
 目の前の人物を超然としていると感じていた自分の想像は、的中していたらしい。彼はそう思った。

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