事務所のキッチンは綺麗に片付けられていた。
 散らかっていないという点では蒼井家のキッチンと同様だが、蒼井家と異なる点としては物が少ない事にある。散らかったり片付けたりするだけの量がない。
 実質的に独り暮らしなのだから、こんなものかとソウタは考えた。そして料理やその片付けなども、このアンドロイドがやってくれているのだろう。人間に従うアンドロイドが存在する以上、家主が掃除に困るような事はなさそうだった。
 ソウタは冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。新しいボトルを開けてふたつのケトルに注ぎ込み、それらを沸かしに掛かった。
 この人工島は完全循環型のシステムが構築されており、水道水も相当に綺麗な浄水だった。しかし水道水に気を遣う人間は世界的に多く、この人工島においてもミネラルウォーターを飲む人間もそれなりに存在していた。
 そのうちにケトルが笛の音を立て始め、ソウタは本格的に鳴り始める前に火を止めた。沸騰したふたつのケトルのうち、ひとつを取り上げて茶葉を淹れた陶器のポットに湯を注ぐ。その頃にはホロンはもうひとつのケトルの蓋を開け、そこにカップをくぐらせていた。
「今日はどうする?」
「ミルクもレモンもありますよ」
 ソウタの言葉を略した台詞に、ホロンはその意を汲み取って応対する。彼もそれに納得し、冷蔵庫を開けた。自分の家のそれのように内部を覗き込む。
 数人の家族用である少し大きめの冷蔵庫には、やはりあまり物は入っていない。そのサイドポケットには色々なペットボトルやパックが並んでおり、その中には牛乳パックも含まれていた。同じ牛乳だと言うのに人間用と義体用と猫用の3パックが並んでいる光景が、この事務所の在り様を良く表している。
 ソウタは人間用の牛乳パックに手を伸ばした。陶器製の小さいミルクポットに注ぎ移し変え、パックを冷蔵庫に戻す。次いで、義体用のパックを手に取り、別のミルクポットに同様に注ぎ込む。
 そんな作業を繰り返していると、ふと冷蔵庫の内部が彼の視界に入り込んできた。
 冷蔵庫の目立つ所には、大き目のプリンがひとつ鎮座していた。その蓋には、彼にも見覚えがあるキャラクターがプリントされている。その絵柄から、どう考えても彼には、これを買った人間は独りしか思いつかない。
 別の棚には様々な惣菜らしきパックがいくつか入っている。それらには義体用とのラベルが貼ってあった。
 彼は冷蔵庫内を目視検索し、ラベルがないタッパーを見付け出した。それを手に取り、覗き込む。その中にはレモンの輪切りが見当たった。彼はそれも空けて皿に取り出す。用意したトレイの上に小瓶と一緒に並べた。
 そこまでした時点で、ソウタにはふと、気付く事があった。彼は冷蔵庫を閉め、その上部にある冷凍室を開けた。ひんやりとした冷気が彼の顔に掛かる。
 冷凍庫には、袋に入ったロックアイスの買い置きがいくつか入っている。それが大きなスペースを占めていた。しかし、他にはバニラアイスやその他のアイスがいくつか目に付く。彼は、それらを自宅の冷凍庫でも見掛けた事があった。やはり、買った人間は独りしか思いつかない。
 ――あいつ、自宅だと俺が煩いからって、ここに隠してたのか。ここで隠れて食べてたか。
 冷蔵庫のプリンと合わせ、ソウタはその結論に至った。妹の周到さに感心するやら呆れるやらと言う心境になる。
 ふと、冷凍庫の奥に、霜の塊のようなものが見えた。どうやら僅かに金属らしきものが垣間見えているので、缶が凍り付いて霜と一体化したものらしい。にしても、事務所が開設されたのはこの1,2ヶ月のはずなのだから、ここまで一体化するとは一体何事だろうと彼は思う。
「――蒼井様、どうかなさいましたか?」
 その時、彼の背後から女性のにこやかな声がした。すると紅茶の良い香りが漂ってきている事にも気付いた。どうやら蒸らしもいい時間になっていたようだった。これ以上待っていても茶葉から苦味が出てきてしまう。丁度いい頃だった。
「…いや、何でもない」
 彼も紅茶に対するそれだけの知識はあった。そのために冷凍庫を閉め、お茶の準備を応接間に始める事とする。自分の躊躇のためにお茶の美味しい時期を逃す事は、彼の料理に対する矜持が許さない。

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