Eiichiro KUSHIMA

 彼女が言いたい事は良く判っている。
 結局は彼女は理解しては居ないだろうが、私は彼女がどんなに波留の事を想っているか、しっかりと訊かせて貰っていた。その時にはとてつもなく大人気ない感情が私の脳内に渦巻いたものだった。
 いや。今の私も充分に大人気ないか。こんな深層から、尚、彼を呼んでいるのだから。
 君もこちらに来い。
 この前、私は彼を助けた。その上で、そう誘い込む。
 もし彼が本当にこの深層までやってきたならば、どうなるのか。その最悪の可能性までもを判った上でだ。
 不意に視界が歪み、弾けた。私に本当に「視界」と言うものが未だに備わっているならばの話だが。ともかく私は今、そう言う認識をした。
 その先を私は見る。そこに見出される人影がある。こんな深層に一体誰が来るというのだろう。それこそ、彼しか到達出来ないような超深海だと言うのに。
 その人影が何なのか。私はそれを認識した瞬間、私は瞠目した。
 黒髪をうなじの辺りに纏めた若い男の姿がそこにあった。その身を青いダイブスーツに覆い、その場に立っている。
 そして彼は私を流し見るように、視線を送る。細められた目は優しげで、楽しげでもあった。それは私が以前から見ていたものだった。
 彼がこちらに向き直る。笑顔で右手を挙げ、私に向かって歩き出してきた。柔らかな笑顔が私に向けられている。海水に濡れた前髪が額に張り付き、そこから垂れた水分が顔に川を作っている。
 ――止めろ。
 彼を見ている私の思考が乱れてゆく。メタルの海に張り巡らせているリンクラインが、潮流に捉われ流されてゆく。
 性質の悪い冗談だ。
 私の思考は不快感を隠さない。その思考が、彼に向かって波を放つ。彼はその右手を顔の前に挙げた。波から顔を庇うような格好を取る。しかしその向こうに見える顔に浮かんでいるのは、相変わらず笑顔だった。
 しかしその笑顔は、何処となく厭味なものに見えた。それは私が今そこに居る彼に悪意を感じ取っているからだろうか。本物の彼相手ならば、そんなものは全く抱かないだろうに。
 ともかく、彼の前で波が弾けた。途端、泡が巻き起こる。顔に笑みを張り付かせたまま、彼の姿がそのまま泡に飲み込まれていった。その姿が海の中に掻き消されてゆく。
 泡が弾ける音が煩い中、女の嘲笑が聴こえてきた。
 メタルの魔女が。私はその嘲笑に苛立つ。
 彼女は私の思考を読み取り、それに対応した何かで干渉してくる事がある。深海は既に彼女のテリトリーであり、私はそこにいるのだから、時折そのような事態になってしまっても当然ではあった。
 魔女はたまに私をからかうような事をしてくる。そして私はそれに苛立ち、彼女は更にその感情を読み取って嘲笑する。そして私は――と、まるで海の漣のように徐々に増幅されてゆく。
 それでも、私は彼女から離れる事は出来なかった。
 彼女は私と出会った時点で、彼女の特性を存分に発揮していた。彼女は私の記憶を全て読み取り、そのコピーを取り、それらを莫大なプールサーバへと保存してしまった。
 そして今の私はメタルに意識を漂わせている。それはとても危ういもので、ともすると意識がメタルに溶けてゆく。完全にそうなってしまえば、私は私と言う存在ではなくなってしまう。
 仮に情報を統合して再構築出来たとしても、それは果たして今までの私なのか。それは思考実験の次元ではなく、スピリチュアルな世界の話だった。
 だから、私は自分を失わないために、彼女が保持している私の記憶のデータにリンクラインを伸ばし、確保していた。意識が全て溶けてしまっても、このリンクラインが生きている限り、私と言う存在は連続している事になる。
 私が私であるうちに。
 早く、私の元に来い。答えを君に渡してやる。
 私の叫ぶような祈りの思考は、彼に届いているのだろうか。それを確認出来ないのがもどかしい。
 しかし、彼がやってきたとして。私が得た答えを受け渡したとして。果たして、その後の事は――私には、判らない。あまり考えない事にしていた。
 彼の夢は、お気に召さないのかしら。
 笑みを伴ったそんな思考が私の元に届いた。私をからかうつもりか。
 夢見せ屋が。私は彼女のふたつ名を、吐き捨てた。
 それを夢だと認識してしまった者にとって、夢とはとても空しいものだ。
 至高の話手たる彼女にそれが判らないはずがない。
 なのに私にこのようなちょっかいを出してくるとするならば、それはやはり嫌がらせなのだろう。

[next][back]

[RD top] [SITE top]