彼の白髪が風にたなびき、太陽の光に透けてゆく。夕陽の紅が白を透過して微妙な色合いを作り出している。 今までは車椅子だったから、彼の結んだ髪に風が通る事はあまりなかった。でも今の彼は杖を突いてではあるがその脚でしっかりと歩いているから、風を身体全面に受けている。 彼は確かに白髪だけど、それはとても美しいものなのだと私は知っていた。介助と言いつつその実は自分本位な興味を持って、私は彼の白髪を良く梳いていたのだから。私も髪が長いから、彼の長い髪にも興味があったのだ。 彼の髪は綺麗に色素が抜けてしまっていて、髪質も全く痛んでいない。永い眠りのせいでそんな状況になってしまっているのだろうから、彼としてはあまり嬉しくはない美しさなのかもしれない。しかし、これがもし黒髪だったなら、どんなに褒め称えられる髪なのだろうと思う。 私の前を彼が歩いている。私とは、学校帰りに偶然出会った格好だった。 これは今までにない事だ。何せ今までの彼は車椅子であり、独りではあまり出歩かなかったのだから。それが今では杖を突いて気ままに出歩いている。 先行している彼に、ふと私は、手を繋いでもいいかなと訊いた。 その声に彼は振り返り、軽く小首を傾げてみせる。しかしすぐに少し笑い、左手で杖を突きつつ重心をそちらに移した。そして私に対して右手を差し伸べた。 私はその手を取る。薄く骨ばった手。肌はかさついていて、その掌は少し冷たい。でも、それこそが彼自身だった。 その手を軽く結ぶ。私は彼に微笑みかけ、歩こうと言った。僕は杖を突きながらだから、早く歩けませんよと戸惑うように言われるが、それでもいいからと私はまた笑う。 結果的に私は彼と手を繋いだまま、隣り合ったまま、ゆっくりと歩いてゆく。事務所へと続く海沿いの道。人通りは元々少ない道で、現在も全く人影は見られない。 私よりも高い位置に、彼の顔がある。それを軽く見上げると、彼は少し真剣な顔をしていた。杖を突き歩く事に集中しているらしい。その様子を私は微笑ましく思う。 彼のゆっくりとした確実な歩みに、私は自らを合わせる。繋いだ手の指を絡めた。掌を密着させると、少し暖かくなった感触が伝わってきた。私の熱が伝わっているのか、それとも彼自身が熱を持ち始めているのか。 その視線に気付いたのか、彼が私に怪訝そうな視線を落としてきた。だから私は笑い、今晩彗星を皆で見に行こうかと言った。 皆で。――結局は、彼とふたりで。 私はその時、確かに幸せだった。 こんな日々が何時までも続くのだと思っていた。 行かないで。 私は彼の口からその台詞を訊いた時、すぐにそう言いたかった。 しかし私にはそんな事を言える資格などない事も判っていた。 あの日以来、彼はずっと海を見ていた。あのひとのために潜るはずだった海を。そして日中には、あのひとの元へと訪れる事が多くなっていた。 それは仕方のない事だと理解していた。もう二度と目覚める事はないと言われていたあのひとを想い続ける事が不毛にせよ、もう還らない以上仕方のない事なのだと。心の整理をつけるための儀式なのだと。 しかし、あのひとが車椅子に収まった姿を私達の前に現した時、彼は少し怒ったような顔をしていた。 あなたは久島ではない。 不快感と共にきっぱりと言い切る彼は、確かに私とは全く違う物を見ていたのだ。 そして今。 やはり、本物のあのひとに会えるものならば、会いたいものなのだろうか。 それが遥か海の底であったとしても。 連れて行かないで。 私の心の叫びは、何時しかそう変わっていた。叫び懇願する相手も、彼ではなくなっていた。 声が聴きたくて。 一緒に居たくて。 ――好きなんです。彼の事が。 私はあなたに、そう、はっきりと言っておくべきだった。波留さんは、あなたには渡したくはないと。 せめて、まだ人間であってくれたあなたならば、まだ納得が出来たのに。 私は涙を流す訳にはいかない。私にはもう彼を引き止める権利はないからだ。私が居るべき場所は、彼の隣ではなくなってしまったからだ。それが判ったからこそ、私もまた彼から旅立って行こうと決めたのではないか? 泣いて縋れば彼も困った顔をして笑うだろう。私が泣いている間だけでも、一緒に居てくれるだろう。しかし、そんな事をやってはならない。彼を困らせてはいけない。 結局、彼は旅立ってゆくのだろう。私を置いて。 |