Masamichi HARU

 海の上部にある空がゆっくりと白んでゆく。夏の朝の空気は澄んでいて、太陽の成分を帯びていないうちは僅かに冷たい。
 スポーツシューズにジャージとパーカー。動き易い服装で、僕は海沿いのその道に出る。海をすぐそこに臨む桟橋状の道は板張りで弾力性があった。道幅はそれなりに広い。人間が数人は並んで歩けるような広さだ。
 僕はそこで軽く身体を動かす。目覚めた直後の身体を暖め慣らしてゆく。そのうちに太陽は徐々に海面から姿を現してゆく。
 そしてその頃には、少女が僕の元へとやってきていた。大抵の日は制服姿。学校へ向かう前の時間帯であるためだ。彼女はその前に、早起きして僕の元へ立ち寄ってくれている。
 彼女がやってきた頃には、僕の準備はすっかり出来上がっている。だから僕は彼女に軽く声を掛け、すぐに走り出した。
 携帯端末を片手に、彼女がタイムを計ってくれる。僕はそれを横目に軽く駆け出す。靴底が板張りを捉える。被ったフードの中で、結んだ髪が跳ねるのを感じた。
 腰の辺りに留めた手を軽く振る。夏の朝の空気が顔に当たる。染み出してきた汗が顔を伝ってゆく。
 呼吸すると空気が喉に張り付く。しかし無理はしない。自分のペースを把握する。これは身体を作るためのランニングであり、タイムアタックではないのだから、別に急ぐ必要はない。顔を上げ、前を向いて走るように心掛けた。姿勢を正して走るのが肝要だ。
 視界に景色が流れてゆく。片方には海と空。そしてもう片方には道路。それらが脚を繰り出す度に揺れて動いてゆく。
 そうやってゆくうちに、僕は走り始めた元の場所へと戻ってゆく。辛くはないペースを保っていたために、僕を呼ぶ少女の声が耳に届くのを意外に感じていた。もう1周が終わってしまうのかと。次の周にはもう少しペースを上げてもいいだろうか。
 そして僕は彼女の元に辿り着く。彼女は楽しげに僕に計測タイムを告げ、僕はそれに頷いた。
 その時点で、彼女はそろそろ学校へ向かわなくてはならなかった。僕は彼女の背中を見送り、そして後何本かを走り込む。
 何周か走ってゆくうちに太陽が昇り、夏の陽射しが強くなってゆく。そうなってくると運動するには少々辛い。暑さを避けつつ、僕は軽い運動で身体を落ち着かせてゆく。呼吸と脈拍をきちんと整えてから事務所に戻る。
 そしてシャワーを浴びてきちんと汗を落とし、服を着替える。気が向いたら近所のカフェにでも朝食を食べに行くが、そうでなければ事務所にあるもので自分で何か作って食べる。
 あのプラントが稼動を開始して以来、僕はそう言う朝を過ごしていた。
 一見して、平穏な日々。
 しかし、走りながら横目に見ている海は、連日微妙に変化していた。海のその色合いや潮の香り、風の音。僕はそれを把握している。そしてその変化は、本来あってはならないものだった。
 期限は徐々に迫りつつある。そのリミットが来た時、海はどのような変化を見せるのだろうか。
 ――彼が、僕を呼んでいる。
 海の傍を走っていると、時折それが聴こえてくる。それは明瞭な言葉をもった声ではない。もっと原始的で心に直接働き掛けてくるようなものだ。それは意味のある言葉ではないが、僕はその内容を感覚的に理解していた。
 早く来いと。確かに僕を呼んでいる。
 今までの彼のように落ち着いているようでいて、僕の心を突き飛ばすような叫びのような情動。それが放たれてくる。そして僕はそれを受け止め続けている。

 
"久島に、会いに行きます"


 僕の目の前で、少女が微かに震えている。
 目を見開き、拳を膝の上で作り、硬く握り締めている。身体に力が入っているのが傍からでも見て取れた。唇を噛み締めている。泣き出しそうな印象。
 ああ、僕はまた彼女を泣かせてしまうのだろうか。これで何度目だろう。短い付き合いだというのに、本当に悪い男だ。彼女の祖母であり僕の知己の女性に知られたら、一体何と言われる事か。
 僕には、こうなる事は判っていた。なのに敢えて彼女を食事に誘ったのだ。その上で、僕はこんな話をしている。僕は一体何をやりたいのだろう。
 今判っているのは、僕の目の前で彼女が泣き出しそうな顔をしていると言う事実そのもののみだった。

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