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久島としては今、自分の目の前にたゆたっている赤い液体から良い香りが感じられる事は否定しようがない事実だった。彼が持つカップにもきちんと熱が通っているが、持てない程に熱い訳でもない。縁に口をつけるとそれらが更に良く判った。 試しに一口含んでみる。すると、程好く暖かい液体が口の中に広がった。 「――これは…」 しばし液体を口の中で転がした後に飲み干す。そして久島は意外そうな表情を浮かべて何かを言いかけていた。 「どうでしょう」 波留は棚に寄り掛かった格好で、そんな彼の様子を微笑んで見ている。久島は立ったままティーカップ一式を彼から受け取った状態だった。左手に持ったソーサーを受け皿に、右手のカップを口から離す。 「君、お茶汲みも出来るんだな」 「ダイバーや研究職を首になっても転職先には困らないかもしれないですね」 「仮に無事職を全うしたとしても、老後には喫茶店でもやるといい」 すっかりふたりは妙な台詞の応酬を行っていた。それでも久島としてはその紅茶を褒めているつもりだったし、波留もおそらくそうなのだろうと判っていた。だから微笑んで受け止めている。 久島はまた一口紅茶を飲む。それから静かに尋ねた。 「何処でこんな特技を?」 「前の職場には色んな人間が居ましてね。華僑やイギリス人や、その辺の連中がそれぞれの茶の淹れ方を伝授してくれました」 確かに波留が挙げた人々は、その国民性からしてそれぞれに茶に拘りを持っているものだった。それは一般的にも知られている。しかし、笑顔を浮かべて懐かしそうに語る波留に対し、久島は疑問を呈していた。 「それは、まともに淹れる茶の話じゃないのか?」 「いつも茶葉が揃っている環境が整っている訳じゃないですからねえ。そんな時にも旨い茶を飲む事に拘る彼らの知恵をおすそ分けして貰いました」 「そうか…」 久島は納得したように頷いていた。長年の生活自体に茶が組み込まれている人間達ならば、そう言った工夫もしてゆくものなのかもしれない。しかしそう言う工夫を伝授して貰えるとは、前の職場の人間達には余程気に入られていたのだろうと捉えていた。 そんな彼をよそに、波留は棚を後ろにしたまま背中越しに手をついた。そっと押して、棚に寄り掛かった姿勢から離れる。 それから歩みを進め、久島の脇をまた通り過ぎた。自分の席に戻る。暫く放置していたノートパソコンに向かい合い、今度こそキーボードに触れた。軽く弾けるような音と共に、スタンバイ状態になっていた黒い画面に光芒が走る。 そしてそこには再び書き掛けの文書ファイルが表示されていた。そのまま波留はキーボートに両手を沿え、文章を打ち込み始める。 久島はその様子を見下ろしたまま、暫く紅茶を味わっていた。静かな室内に淡々とキーボードを叩く音が響いてゆく。 やがて久島はカップをソーサーの上に戻した。左手でそれらを持ち上げたまま、棚へと向かう。そこに並んでいる品々の脇にカップ一式を更に並べた。 それから彼はそこにあったものを備え付けの流しに持って行ったり、使用済みのフィルターや豆、ティーバックなどをゴミに捨てたりしてゆく。彼のそれらの行動に波留は特に何の反応も示さなかった。余程集中しているのか、着実にレポートを書き進めてゆく。 「――紅茶、ごちそうさま」 「いえ。こちらこそ、コーヒーありがとうございました」 作業を終えた久島が戻ってきて波留にそう呼びかけると、波留は久島を見上げる事無く画面に視線を注いだ状態のままそう答えていた。左手がキーボードから離れて彷徨う。 その手がノートパソコンの小脇に置いていたマグカップを手探りに摘み上げた。彼はそれを口許に持ってゆき、大きく傾けて残っていた液体を飲み干す。流石にもうぬるくなっていたが、旨味はそれなりに残されていた。 内容物が失われたマグカップがまたノートパソコンの小脇に置かれる。波留の手が離れていったそれを、久島が取り上げた。 そのついでに彼はノートパソコンの画面を覗き込む。文章は既にかなり進んでいた。このレポートもそのうちに書き上げてしまいそうだと踏む。 「…しかし、何だ」 「はい?」 久島が話を向けるが、波留は相変わらずディスプレイから視線を外さない。上部から覗き込まれているために蛍光灯の光が遮られた格好になっているが、特にそれを気にする様子もなかった。別に用意されている写真の画像アルバムや資料ファイルなどを参照しつつ、文章を組み立ててゆく。 「君は私より2歳年下だから、そんな風に丁寧に話すように心掛けているのか?」 「ええ。日本人同士ですし」 「しかしここでは同期扱いだし、そもそも最終的な卒業年次は一緒なんだがな」 「まあ、それはそのうち」 全く顔を上げないまま波留はそう答えた。手元では延々と文章を打ち込んでいるが、会話自体は生返事と言う訳ではなかった。久島が言っている事も把握したまま会話を進めている。 |