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久島は上体を剥がした。そして取り上げたマグカップを再び流しへと持ってゆく。それを片付けた後に、自分で確保していた席に戻った。そこに立ち上げられていたノートパソコンから、先程受け取ったファイルを削除してからその電源を落とす。 あまり作業をしていなかった事とパソコン自体が数世代前のモデルだった事もあり、タイムラグなく電源はすぐに落ちる。それからケーブルをハブから引き抜いた。 ノートパソコンのディスプレイを折り畳み、彼は席を立った。小脇にパソコンを抱える。静かに椅子を机に戻し、向かい側の席に声を掛けた。 「波留。君には期待している。君と共に研究出来て光栄だ」 その台詞に波留は若干視線を上げた。立てられたノートパソコンのディスプレイ越しに向かい側を見やる。相手は立ち上がっているために、その視線は通っていた。 「それはこちらの台詞です」 波留が発したその台詞は社交辞令とも本心とも言えた。久島のような優秀な研究者を近くに仕事を出来るとは、自分にとっても良い刺激になると思っていたからだ。彼がこれから見出すであろうその研究成果を間近にして、素直に凄いと思いたいと言う気持ちもある。 しかし自分が彼に評価されていると言う状況は良く判らない。どうやら随分前から興味を持たれていたようだが、これまでに彼の目に留まるような印象的な研究発表でも行っていただろうかと思う。 「だから、明日のレポートを楽しみにしている」 「…はい」 久島の台詞に波留は手を止めて苦笑した。結局はそこに行き着くのか。だとしたら、これはハッパを掛けられているだけなのだろうかと判断した。 靴音が室内に響く。室内灯が影を移動させてゆく。話が終わったらしいと判断し、波留は画面に視線を戻した。再び文章へと集中する。そろそろ結論部分に入るべきであり、余計な事を考えないようにした。 「邪魔したな。悪かった」 そんな久島の声を波留は聴いていた。彼はそれには曖昧に会釈して流していた。靴音に次いで扉がゆっくりと閉められる音がして、オートロックの鍵音が静かな室内に届いていた。 室内にひとり残された波留は大きく伸びを打った。良い息抜きになったか、コーヒーのおかげか、眠気は飛んでしまっている。そしてこのペースならば1時間も掛けずに書き上げてしまえるだろうと予測する。 ひんやりとした空気が心地良い。そしてこの壁の向こうには海が広がっている。仮にデータを持ち帰る事が出来たにせよ、ここは自分にとってはホテルよりも仕事が捗る環境だろうと彼は思った。 脳裏をよぎるイメージは、ひとまず置いておく事にした。 |