船室には相変わらずひんやりとした空気が流れている。それはこの区画が海中に没しているからであり、海水の冷たさが自然のクーラーとなっているからだった。
 波留に淹れられた黒色の液体は、マグカップの中から随分と少なくなっている。量が減った事で大気に触れる割合も増えてきていて、その分帯びていた熱が蒸発してきていた。冷めつつある。
 現在、ふたりの会話は一時途切れていた。波留はコーヒーを飲んでおり、久島はそんな彼の様子を見下ろしている。
 波留は横目で机の上を見た。一定時間操作されていないノートパソコンはディスプレイの電源が切れており、黒い画面を表示している。左手を上げる。キーボードの適当な場所を押そうとしたが、その手がキーボードの上で止まった。
 ふと気付いたような表情を経て、波留は少し笑った。右手に収まっていたマグカップをノートパソコンの小脇に置く。そして机に両手を突いて席を立っていた。
「――久島さんは、何がお好きなんですか?」
 彼はそんな台詞を口にしていた。言いながら立っていた久島を横目で見つつ、彼の脇を通り過ぎてゆく。
 久島はそんな波留をちらりと見た。そのまま彼の背中を見送る。
「私か?」
「ええ。コーヒーが嫌いなら、普段は別の飲み物を飲んでいるんでしょう?」
「ああ…」
 壁際の棚の方へ歩いてゆく波留の背中を視界に入れつつ、久島は頷いていた。腕を組んだまま静かに答える。
「――強いて言えば、紅茶だが」
「ああ、成程」
 そんな風に頷きながら波留は棚を漁り始めていた。ガラス戸を開いてその中に顔を突っ込む。船内では確保されたスペースは限られており、それだけに棚には物が詰め込まれている状態だった。波留の手がそこにある物品を乱雑に掻き分けてゆく。
「――おい」
 そんな風に棚を漁る事で、波留の背中側からも動きが見て取れる。その背中に久島は呼びかけていた。
「その棚は茶葉なんぞないし、そもそも船自体に備えがないぞ」
 その声に波留は振り向いた。身体は棚に向けたまま、首を曲げて傾ける形で久島の方を向く。
「――と言う事は、日中のうちにでも、既に探した後なんですか?」
 波留の問いに、久島は一瞬面食らったような顔をする。それはしまったとでも言いたげな表情だった。
 その表情はすぐに無表情へと切り返される。しかし波留はその変化を一部始終見ていて把握していた。それを久島も知っていた。だから僅かに黙り込んだ。
「…まあな」
 沈黙の後に憮然と答えた久島に、波留はにやりと笑ってみせていた。コーヒーに対する反応と言い今回の紅茶のこれと言い、やはり彼も好悪が絡むと途端に人間らしい行動に出るようだ。食に関する物事とはとても偉大らしいと波留は思った。
 そんな風に波留はにやにやと笑いを浮かべて久島を見ていたのだが、向こうに見える久島の憮然とした表情がどんどんと濃くなってゆく。人間らしい感情が見えるだけあり、若干その感情も害する部分もあるらしい。あまりやり過ぎるのも駄目だと思い、波留は棚に向き直った。ごそごそとした手元に視線を落とし、ふと動きが止まる。
「――あ、でも、ティーバックならありましたよ」
 にこやかな笑顔を浮かべて波留は振り向いていた。戦利品のように黄色い包装紙に包まれた小さな物体をひとつ、右手の指先で摘み上げて久島に見せる。その様子の変化にも久島は憮然とした表情を保っていた。
「そんなもので淹れても、大した味にはならないが」
 彼としては、そんなものがある事自体は把握済みだった。しかし紅茶であるからには、きちんとした茶葉で淹れたものしか認める気にはなれなかった。
「…で、カップ一式や電動ケトルもあるから…冷蔵庫にはミネラルウォーターはまだあったし…」
「おい、だから」
 全く久島の反応を気にしていない風の波留は棚を漁り続けていた。口に上がった用具をその都度棚の上に並べてゆく。使用が終わっているコーヒーメイカーの隣に様々なものが置かれていった。
 それが一段落したようで、波留は棚を漁り続けて中腰状態だった体勢をきちんと伸ばした。ぱんぱんと手を払う。
「――ティーバックでも、それなりの味のお茶は淹れられるものですよ」
 波留はそう言って振り返り、久島に爽やかに笑いかけていた。彼のそんな態度に対して久島からは疑わしい視線が降り注ぐ。
 しかしとりあえず波留はその冷たい視線を無視していた。清々しい笑顔で跳ね返す。
「お近付きの印かつコーヒーのお礼です。まあ、騙されたと思って待っていて下さい」
「…礼をするつもりとは思えない言い草なんだが」
「気のせいでしょう」
 波留は爽やかな笑みを浮かべたまま、いけしゃあしゃあとそう答えていた。
 
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